鉄の規律 ― 兵器廠(アーセナル)の亡霊
1860年代初頭。アメリカの南北戦争を「平和転換融資」という奇策で未然に防いだヨシュア・ゴールドシュミットの快挙は、皮肉にもロンドンの闇に潜む怪物たちを呼び覚ました。
「ヨシュア様。リバプールの港で、わが銀行が差し押さえたはずの南部向け軍需物資が、英国陸軍の特別命令によって強引に徴用されました。さらに、議会では保守党の強硬派が、貴殿を『合衆国との不当な癒着により帝国の軍産権益を損なった』として、国家反逆罪に問うための秘密委員会を設置しました」
サミュエルが報告する声は、かつてないほど緊張していた。相手は商人ではない。国家という名の暴力装置を司る、軍部と兵器メーカーの癒着構造である。
ヨシュアはロンドンの銀行本部の窓から、テムズ川沿いに建つ巨大な兵器工場を見つめた。アームストロング社。大英帝国の火力を一手に担うその企業にとって、ヨシュアがもたらした「アメリカの平和」は、数千万ポンドの損失と同義であった。
「……平和が訪れるたびに、彼らは血を求めて吠え出す。サミュエル、彼らは『戦争という名の公共事業』がなければ、自らの無能を隠せないのだ。だが、他人の命を燃料にして回るエンジンなど、わが帳簿には一ペニーの価値もないッ!!」
数日後、ヨシュアはイングランド銀行の地下にある、重厚な石造りの審議室に召喚された。そこには陸軍元帥、アームストロング社の重役、そして大蔵省の官僚たちが、獲物を追い詰めた猟犬のような冷酷な笑みを浮かべて座っていた。
「ゴールドシュミット。貴様の独断専行により、帝国の軍需産業は深刻な打撃を受けた。これは帝国の防衛力を削ぐ反逆行為に等しい。……貴様の全資産を凍結し、銀行の営業免許を剥奪する。文句はあるまいな?」
元帥が机を叩き、傲慢に言い放った。だが、ヨシュアは無言のまま、一通の「鉄鋼・石炭供給停止通知書」を掲げた。
「反逆だと? ……笑わせないでいただきたい。あなたがたが今守ろうとしているのは、帝国の防衛ではなく、身の丈に合わない兵器を造り続ける『過剰設備』という名の不良債権だッ!!」
ヨシュアの声が、冷たい石壁に鋭く反響した。
「な、何だと!? 無礼な!」
「いいですか。アームストロング社が最新型の大砲を造るために、どれほどの鉄鋼と石炭を浪費しているか計算したことがあるのか? それらの原料を供給している採掘会社、運搬している鉄道会社。そのすべての筆頭株主が、今、誰の下にいると思っている……ッ!!」
ヨシュアは一歩、元帥の鼻先まで詰め寄り、冷徹な数字を突きつけた。
「本日、私はわが銀行グループが保有する全サプライチェーンに対し、軍需部門への供給を『即時停止』するよう命じた。……大砲を造りたければ、素手で鉄を捏ねてみるがいいッ!!」
「貴様……! 国家の命令に背くというのか!」
「国家? ……いいえ、市場の審判だッ!! 戦争という名の不採算事業に固執し、平和という名の利益を毀損しようとした罪。その報いを、あなたがたの『工場の完全沈黙』という形で、一文残らず清算していただくッ!!」
ヨシュアの咆哮が審議室を凍りつかせた。彼はさらに、アームストロング社の重役に対し、致命的な一撃を放った。
「さらに! あなたがたがフランスやロシアの過激派に極秘で武器を流していた裏帳簿、その写しは既にロンドン警視庁と各紙の記者に手渡してある。……平和を売る金貸しを反逆者と呼ぶ前に、自らの『二重帳簿』を監査してくることだッ!!」
重役の顔が土色に変わり、椅子から崩れ落ちた。
1860年代初頭、ロンドン。国家権力を傘に着た死の商人たちは、ヨシュアが張り巡らせた「資源と信用の包囲網」の前に、あえなく粉砕された。アームストロング社の株価は暴落し、ヨシュアはそれらを安値で買い叩くと、全工場を「鉄道用レールと蒸気機関」の生産ラインへと強制的に転換させた。
「サミュエル、次の工程だ。……人殺しの道具を造っていた火床で、世界を繋ぐ鋼鉄を打て。……一門の大砲を造る金があるなら、一キロのレールを敷け。……それが、このヨシュア・ゴールドシュミットが下した最終裁定だッ!!」
ヨシュア・ゴールドシュミット。一人の金貸しの執念が、帝国の闇を照らし、戦争の動機そのものを経済的に封殺した。彼の帳簿は、また一つ、歴史の赤字を消し去り、人類の繁栄という名の黒字を力強く刻み込んでいた。




