砂漠の利権 ― 帝王への不渡り
1860年代半ば。ロンドンの兵器産業を「鋼材生産」へと強引に舵取りさせたヨシュア・ゴールドシュミットの元に、地中海の熱風と共に不穏な報せが届いた。
「ヨシュア様、スエズ運河の掘削が最終段階に入りましたが、フランス皇帝ナポレオン3世が、エジプト副王の放漫財政を突き、運河株の独占を狙っています。フランスは、この運河を『フランスの湖』とし、英国や清国を排除した独自の関税圏を構築する構えです。これが成れば、私たちが築いた世界自由貿易圏は分断されます」
サミュエルが広げたエジプト副王の貸借対照表は、豪華な宮殿建設と放蕩によって、見るも無惨な「債務超過」に陥っていた。ナポレオン3世は、この借金を肩代わりする見返りに、運河の永久支配権を要求しているのだ。
ヨシュアは、スエズの砂に埋もれた黄金の価値を、誰よりも理解していた。
「……ナポレオン3世か。伯父(ナポレオン1世)の栄光を数字で再現しようというわけか。だが、国家の威信という名の『過大評価』ほど、市場にとって有害なものはない。サミュエル、エジプト副王に伝えろ。……フランスの甘い誘いは、あなたの首を絞めるための『高利貸し』に過ぎないとな」
ヨシュアは即座に、パリのロスチャイルド家とも連携し、欧州全土の公債市場に揺さぶりをかけた。そして、カイロのパレスホテルの一室に、フランス特使と、震えの止まらないエジプト副王を呼び出した。
「ゴールドシュミット殿。これはフランスとエジプトの二国間問題だ。英国の銀行家が口を挟む余地はない。副王はフランスの保護を求めておられるのだ」
フランス特使が、傲慢な笑みを浮かべてヨシュアを牽制した。だが、ヨシュアは無造作に、一通の「債権譲渡通知書」をテーブルに叩きつけた。
「二国間? ……笑わせないでいただきたい。副王がパリの銀行に負っている借金、その八割を本日、わが銀行団が買い取らせていただいた。……今、この瞬間から、副王の最大の債権者はナポレオン3世ではない。……この、ヨシュア・ゴールドシュミットだッ!!」
特使の顔から血の気が引いた。
「な……ッ! 買い取っただと!? そんな巨額の資金、どこから……」
「資金? ……あなたがたフランスが軍拡のために空売りし、市場に溢れさせていたフランス国債を叩き売って作ったのだ。……いいですか。あなたがたが運河を独占しようとした不遜な野心が、自国の通貨価値を下落させ、私の買い取りを容易にしたのだッ!!」
ヨシュアは一歩、特使の鼻先まで詰め寄り、冷徹な現実を突きつけた。
「条件は一つだ。……スエズ運河の株式は、特定の国家が独占してはならない。英国、フランス、清国、そしてエジプト。これら主要貿易国が共同で管理する『国際運河公社』を設立し、全株を公開(上場)しろッ!!」
「そんな馬鹿な! 皇帝陛下が納得されるはずがない!」
「納得させるのではない、屈服させるのだッ!!」
ヨシュアの咆哮が、エジプトの乾いた空気を震わせた。
「やられたら、やり返す。……運河という人類の共有財産を、自らの野心のために私物化しようとした罪。その報いを、フランスの『地中海における影響力の完全失墜』という形で、一ペニー残らず清算していただくッ!!」
ヨシュアの瞳には、帝王すらも一つの「倒産リスク」として処理する、絶対的な冷酷さが宿っていた。
1869年。スエズ運河は開通した。だが、そこにはフランスの三色旗だけではなく、世界中の商船旗が翻っていた。ヨシュアが主導した「国際管理」により、運河は特定の帝国の武器ではなく、世界経済を繋ぐ「黄金の静脈」となったのである。
「サミュエル、次の工程だ。……運河の配当を、エジプトの近代教育と灌漑事業に直結させろ。……この砂漠から、飢えという名の不良債権を根絶する。……それが、このヨシュア・ゴールドシュミットの、新たな投資計画だ」
ヨシュア・ゴールドシュミット。一人の金貸しの執念が、地政学的な野心を経済的合理性で粉砕し、世界の血流を一本に繋ぎ合わせた。彼の帳簿は、また一つ、歴史の赤字を消し去り、人類の繁栄という名の黒字を、確固たる事実として刻み込んでいた。




