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黄金の運河 ― 砂漠に穿つ平和の楔

広東に端を発した「平和の投資」という名の奔流は、インド洋を越え、紅海を北上し、ついにエジプトの灼熱の砂漠へと到達していた。


ヨシュア・ゴールドシュミットは、カイロの外れ、ナイルの川面を見下ろす高台に立っていた。 手元にあるのは、古代から夢見られ、そして誰もが「不可能」と断じた、地中海と紅海を繋ぐスエズ運河の設計図である。


「ヨシュア様。フランスのレセップス氏より書状が。……彼は、この計画に共同出資を申し出ています。しかし、背後にはフランス政府の野心が見え隠れしています」


サミュエルが差し出す報告書を一瞥し、ヨシュアはそれを風に翻した。


「野心など、あって当然だ。……だが、彼らが狙っているのは『領土』だ。私が狙っているのは、その領土という概念を無価値にする『物流の支配』。……いいか、サミュエル。ここに運河を通す。それは単なる短縮路ではない。……欧州、中東、アジア。この三つの世界を、一つの『返済義務』で繋ぎ止めるための巨大な楔だ」


ヨシュアの視線の先には、シナイ半島の荒涼とした砂漠が広がっている。 史実において、この地はやがてイギリス、フランス、そして列強の権益が複雑に絡み合い、幾度もの紛争と「三枚舌」と呼ばれる裏切りを生む火薬庫となるはずの場所であった。


だが、ヨシュアの描く帳簿は、その未来を許さない。


「ヨシュア様、オスマン帝国の太守パシャより使いが。……運河の建設は、帝国の主権を侵すものだとして、重砲による威嚇も辞さない構えです」


「威嚇? ……面白い。……彼らはまだ、自分が誰に生かされているのか分かっていないらしい」


ヨシュアは静かに、しかし冷酷な笑みを浮かべた。


翌日、ヨシュアは単身、オスマン帝国の太守ムハンマド・アリーの幕舎へと乗り込んだ。 護衛の兵たちが剣を抜こうとする中、ヨシュアは懐から一通の「借用証書」を取り出し、太守の目の前に突きつけた。


「太守。あなたがエジプトの近代化のために、ロンドンとパリの銀行から借り入れた三千万ポンド。……その債権は、昨日すべて、私のゴールドシュミット商会が買い取らせていただいた」


太守の顔が、驚愕で土色に変わる。


「な、何だと……。貴様、一人でそんな額を……!」


「私は金貸しだ。……金貸しにとって、返済の滞る債務者ほど扱いにくいものはない。……いいですか。この運河計画を拒むということは、私への返済能力を放棄したと見なし、本日をもってあなたの全資産を差し押さえる。……それはエジプトという国そのものを、市場から消滅させることを意味するッ!!」


ヨシュアの声が、幕舎の布を震わせる。 それは軍隊の咆哮よりも鋭く、相手の魂の核心に、冷徹な「数字」の暴力を突き刺していた。


「だが、もしこの運河建設に協力し、運河の管理権の一部を国際的な平和基金に預けるのであれば……その負債、この私が十年の据え置きを約束しよう。……さらに、運河を通る船から得られる通行料は、エジプトの民を潤す『正当な配当』として還元する」


「……貴様、何を企んでいる。英国政府の回し者か?」


太守の問いに、ヨシュアは一歩、至近距離まで詰め寄った。


「政府? ……あんな連中の小銭稼ぎと一緒にしないでいただきたい。……私は、戦争という最大の『無駄遣い』を、この地球上から一掃しに来た。……この運河が完成すれば、英国がインドを守るために中東を分断する必要もなくなる。……富は、独占するよりも循環させた方が遥かに利回りがいい。……それが分からない愚か者に、この世界の舵を握る資格はないッ!!」


ヨシュアの眼光に、太守は気圧され、崩れるように椅子に座り込んだ。


「やられたら、やり返す。……私を敵に回して、国を破産させるか。……私を味方につけて、世界で最も豊かな運河の主人となるか。……決断するのは、あなただッ!!」


沈黙が流れる。 やがて太守は、震える手で運河建設の許可証に署名した。


1840年代。スエズに最初の一鍬くわが入った。 それは、本来の歴史よりも数十年前倒しされた開発であり、なおかつ、特定の帝国の独占を許さない「国際投資」の形をとっていた。


これによって、イギリスがスエズの権益を巡って中東に火種を撒く動機は消えた。 後の世に起こるはずだった「三枚舌外交」も、石油を巡る血塗られた紛争も、ヨシュアが穿ったこの黄金の楔によって、未然に封じ込められたのである。


「サミュエル、電信だ。……全欧州の投資家に告げろ。……『不毛な砂漠は、黄金を産む路に変わった。これより、全人類の資産は、平和という名の元本の上にのみ積み上げられる』とな」


ヨシュア・ゴールドシュミット。 一人のユダヤ人金貸しが、強欲な支配者たちを次々と「清算」していくたびに、世界は、本来辿るはずだった破滅のシナリオから、着実に遠ざかっていた。

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