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鋼の礎 ― 巨鯨を繋ぎ止める鎖

ロンドンから広東、そして世界へと波及した「平和の投資」という名の劇薬は、今や抗いようのない奔流となって、旧態依然とした権力構造を内側から食い破っていた。


広東の商館区。かつてアヘンの煙が漂っていたその場所には、今や英国と清国の技師たちが肩を並べ、巨大な鉄路の設計図を広げていた。ヨシュア・ゴールドシュミットは、その建設現場の最前線に立っていた。足元には、本国イギリスの製鉄所から運び込まれたばかりの、鈍い銀光を放つ最新のレールが積まれている。


「……ヨシュア様、本国のシティから緊急の書状が届きました。サスーン家をはじめとする旧来の綿花資本家たちが、清国への関税自主権の一部容認に対し、猛烈な異議を申し立てています。彼らは、これを『大英帝国の尊厳に対する不渡手形』だと罵っていますが」


サミュエルの報告を、ヨシュアは鼻で笑った。彼は視線を落とさず、目の前の泥濘に突き刺された一本の杭を凝視していた。


「尊厳だと? ……彼らが守ろうとしているのは、尊厳などという高尚な代物ではない。自分たちの古い財布の底に溜まった、垢にまみれた端銭だ。……サミュエル、彼らに返信しろ。……『尊厳で腹は膨れないが、健全な市場は国家を不滅にする』とな」


ヨシュアの言葉には、一寸の揺らぎもなかった。


彼はこの数ヶ月、私産と借り入れのすべてを注ぎ込み、清国国内の流通網を「大英帝国の資本」で固めさせていた。それは一見、清国への隷属に見える。だが、実態はその逆であった。イギリスの主要な銀行が、清国の近代化の成功に「一蓮托生」で組み込まれたのだ。


もし今、イギリスが清国に戦争を仕掛ければ、ロンドンの主要銀行はすべて、自らの投資先を自らの砲撃で破壊することになる。ヨシュアは、強欲な帝国が自らの富を守るためには「平和」を維持せざるを得ないという、金融の呪縛による巨大な檻を作り上げたのである。


「ヨシュア様! 林則徐大人がお見えです!」


遠くから上がる清国兵の声に、ヨシュアは燕尾服の襟を正し、泥の中を毅然と歩んだ。 林則徐は、以前の刺すような警戒心を潜め、今は一人の「共同経営者」を見る眼差しでヨシュアを迎えた。


「ゴールドシュミット殿。……貴殿が手配した蒸気機関車が、まもなく第一号としてこの広東の地に揚陸されると聞いた。……だが、我が国内の保守派は未だ、この鉄の道が『龍の脈』を断つものだと騒ぎ立てている」


「林大人、龍の脈は断たれるのではなく、繋がるのです。……この鉄路は、広東の茶を瞬時に北京へ運び、北京の政令を瞬時に全土へ行き渡らせる。……そして何より、この路がある限り、英国の軍艦は二度とこの海を汚すことはない」


ヨシュアの声が、周囲に集まっていた清国の役人たちの間にも響き渡る。


「なぜ言い切れる、と問いたいのでしょう? ……理由は簡単です。……この路には、ロンドンの全銀行家の『欲』が塗り込められている。彼らは、自分たちの配当金が走るこの路を、爆撃することなど決して許さない。……平和とは、高潔な祈りによってではなく、不可侵な利益によって担保されるべきものなのですッ!!」


ヨシュアは林則徐の前に立ち、その厳しい表情を正面から受け止めた。


「林大人。あなたがアヘンを焼いたのは、民を守るためだった。……ならば、この鉄路を敷くのは、民を豊かにするためだ。……奪うための戦争か、生むための投資か。……大英帝国の看板を背負ったこの私が、命を懸けて後者を選ばせてみせる。……やられたら、やり返す。……我々から平和を奪おうとする者には、この世界の全資本を持って、破滅を叩きつけてやるッ!!」


その瞬間、林則徐の口元に、わずかな、しかし確かな信頼の微笑が浮かんだ。


ヨシュア・ゴールドシュミット。 彼はこの日、清国という東洋の巨鯨を、アヘンという鎖で縛る代わりに、鉄路という「共栄の絆」で世界に繋ぎ止めた。


これが意味するのは、ただのアヘン戦争の回避ではない。 イギリスが「奪う帝国」から「投資する帝国」へ変質することで、後の世に中東を切り刻む動機はなくなり、アフリカの悲劇は未然に防がれ、資源を巡る世界大戦の火種は、この湿った広東の土の下に永遠に埋没することになる。


「サミュエル、次の工程へ移るぞ。……次はスエズだ。……あそこに運河を掘り、世界をさらに狭くしてやる。……略奪の余地がなくなるほどに、な」


ヨシュアの歩みは止まらない。 一人の金貸しが描いた「究極の黒字」は、歴史の帳簿を血の色から、黄金の繁栄へと塗り替え続けていた。

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