霧の離別 ― 逆転の航路、広東へ
ロンドン、テムズ川の河口に位置するティルベリー港。1830年代の幕引きを告げるような凍てつく霧が、停泊する数多の帆船の牙を隠すように立ち込めていた。かつてここから出航するのは、清国の民を廃人へと追いやる「黒い毒」を積んだ死の船団であった。しかし、今、ヨシュア・ゴールドシュミットがその眼差しで射抜いているのは、最新鋭の蒸気機関の部品と、英国が誇る紡績技術の青写真を積み込んだ、真の意味での「通商」を担う一陣の船団である。
「ヨシュア様、乗船の準備が整いました。……シティの重鎮たちは、あなたがロンドンを離れることに戦々恐々としています。……『王の居ぬ間に、またアヘンの利権を掘り返そう』と画策する者が、必ず現れるでしょう」
サミュエルが厚い外套の襟を立てながら、懸念を口にする。ヨシュアは、霧の向こうで鈍く光る水面を見つめたまま、微塵も動じなかった。
「案ずるな、サミュエル。……私がロンドンに残したのは、単なる恐怖ではない。……アヘン貿易に手を染めた瞬間に、その一族の全資産が自動的に『債務不履行』として没収されるよう、ロイズの保険市場とイングランド銀行の決済網に、回避不能な『罠』を仕掛けてある。……金貸しを敵に回すということは、この世界の血液を止められるということだ。……奴らにその覚悟があるなら、やってみるがいい」
ヨシュアの声は、冷たい潮風よりも鋭く、重い。彼は今回の広東行きの前に、パーマストン前外相をはじめとする「アヘン派」の残党に対し、徹底的な追い込みをかけていた。没収した汚れた資金を原資とし、世界初の「国際平和維持融資」を創設。それを清国との新たな交易インフラに投じることで、略奪よりも共存の方が圧倒的に儲かるという「残酷なまでの現実」を、数字によって証明し続けてきたのだ。
「サミュエル、お前はロンドンに残れ。……私が不在の間、この国の帳簿を監視しろ。……一ペニーの不正な流れも、一粒のアヘンの密輸も見逃すな。……もし裏切りがあれば、容赦なくその喉元を掻き切れ。……私に代わって、きっちりと『倍返し』を執行しろ」
「御意。……ヨシュア様、どうかご無事で。……広東の林則徐閣下は、あなたの到着を首を長くして待っておられるはずです」
ヨシュアは頷き、タラップを登り始めた。船の名は『プロビデンス(摂理)』。かつてのアヘン船とは異なり、その帆には帝国の傲慢ではなく、文明の調和という名の風が孕まれている。
甲板に立ち、遠ざかっていくロンドンの灯りを眺めながら、ヨシュアは内ポケットに忍ばせた一通の極秘資料に指を触れた。そこには、もしこのまま歴史が歪んだアヘン貿易を続けていた場合に起こり得たであろう、惨三たる未来の予測が記されている。
清国の崩壊、植民地支配の激化、そして資源を巡る欧州列強の衝突……。それはやがて世界を焼き尽くす大戦へと繋がり、中東やアフリカに消えぬ火種を撒き散らすことになったはずだ。しかし、今、ヨシュアが「金融」という名の武器でその分岐点を力尽くで捻じ曲げた。
(……アヘンを止める。それは単なる麻薬の撲滅ではない。……不当な収奪に依存しない『帝国の経営改革』だ。……この航路の先に待つのは、戦火の煙ではなく、発展という名の希望の煙でなければならない)
船が外海へと出ると、霧が晴れ、満天の星空が広がった。ヨシュアは冷徹な「金貸し」の顔のまま、しかしその瞳の奥には、数十年後の平和な世界を、あたかも既に「確定した利益」として確信しているような、穏やかで不敵な光を宿していた。
大英帝国の野望を挫き、世界の運命を買い取った男の、第二の戦いが今、海を越えて始まろうとしていた。ターゲットは、アジア。平和という名の莫大な利息を取り立てるための、壮大な「回収の旅」である。




