覇権の引導 ― 金融宰相の倍返し
ロンドンの空を厚く覆っていた煤煙が、冬の鋭い風に流されていく。
ゴールドシュミット銀行の正面に構えられた石造りの階段を、ヨシュア・ゴールドシュミットは一段ずつ、踏みしめるように登っていた。
背後には、彼が数週間かけて叩き潰し、再編し、そして「教育」し直したシティの仲買人たちが、畏怖の念を込めた沈黙で見守っている。
今日、この銀行の大会議室で行われるのは、単なる再建計画の署名式ではない。
大英帝国という巨大な「債務者」に対し、アヘンという禁忌の劇薬を捨てさせ、真っ当な経済活動への回帰を誓わせる、歴史的な「最終決算」の場であった。
「ヨシュア様、パーマストン前外相および東インド会社の旧理事たちが、既に到着しております。……全員、毒気を抜かれたような顔をしておりますが、油断はできません」
サミュエルの報告に、ヨシュアは足を止めず、懐中時計を一度だけ確認した。
「油断など、最初からしていない。……彼らが握っているのは過去の栄光という名の不渡手形だ。……私が握っているのは、この帝国の未来という名の約束手形だ。……どちらが重いか、今この場で理解させてやる」
会議室の扉が開くと、そこには帝国の重鎮たちが、まるで断頭台を待つ罪人のように整列していた。
かつてヨシュアを「卑賎な金貸し」と呼び捨てにしたパーマストンは、今はその鋭い眼光を床に落とし、震える指で書類を握りしめている。
「……ゴールドシュミット。……貴様は満足か。……この英国の誇り高き自由貿易を、ただの計算書の中に閉じ込めて」
パーマストンが、掠れた声で毒を吐いた。
ヨシュアは会議室の中央、主人の席へと悠然と腰を下ろし、冷徹な視線をパーマストンに向けた。
「誇り? ……自由貿易? ……笑わせないでいただきたい、パーマストン前外相」
ヨシュアの声が、冷たい剃刀のように静寂を切り裂いた。
「あなたがたが守ろうとしていたのは、清国の民を廃人にしてまで回収した銀の重さだ。……そこに一ペニーの誇りがあるというのなら、今すぐその銀を食べてみせろ。……不純な動機で汚された貨幣は、もはや価値を失った紙屑に等しい」
ヨシュアは机の上に、分厚い「清国・英国共同開発議定書」を叩きつけた。
「これが、新たな帳簿だ。……アヘンを廃棄する代わりに、清国の広大な大地に鉄道を敷き、蒸気機関を輸出し、互いの文化と技術を対等に交換する。……略奪ではなく『共創』。……それこそが、人類が次に目指すべき、真に健全なポートフォリオ(資産構成)だ」
「……そんな悠長なことで、帝国の財政が持つと思っているのか! 鉄道を一本敷くのにどれだけの時間がかかると思っている!」
東インド会社の理事が、必死の形相で叫ぶ。
「時間がかかるからこそ、価値があるのだッ!!」
ヨシュアは立ち上がり、机を激しく叩いた。
その凄まじい気迫に、居並ぶ者たちが一斉に肩を震わせる。
「安易な麻薬で得た利益は、一瞬で消える。……だが、共に流した汗によって築かれた市場は、百年、二百年と、子孫に渡って莫大な利息を生み続ける。……あなたがたの卑小な想像力では、その『平和の配当』が理解できないのか!」
ヨシュアは一歩、パーマストンの前へ歩み寄った。
「いいか。……もし、あなたがたが再び清国に一粒でもアヘンを持ち込もうとするなら、私は世界中のマーケットに対して『大英帝国の破産宣言』を発令する。……その瞬間、この国は、欧州の辺境に浮かぶただの貧しい小島に逆戻りだ。……それが嫌なら、死ぬ気でこの平和な再建案を遂行しろ!」
パーマストンは、ヨシュアの瞳に宿る、逃げ場のない真実の重みに耐えきれず、力なく椅子に沈み込んだ。
「……やられたら、やり返す。……帝国が世界を戦火で焼き尽くそうとした代償は、この『平和への強制労働』という形で、一ペニーの端数まで耳を揃えて返してもらう。……それが、私からあなたがたへの、最後の融資条件だ」
ヨシュアは、署名のための羽ペンを、パーマストンの前に突き出した。
震える手で、かつての権力者が、アヘン貿易の廃止と賠償を約束する条約に署名を書き込む。
そのペン先が紙を走る音は、後の世に起こるはずだった二度の世界大戦、引き裂かれた中東の悲劇、そして数多の内戦の火種を、あらかじめ踏み消していく音でもあった。
ヨシュアは、その署名が終わるのを、感情を押し殺したまま見届けた。
「サミュエル。……これで、第一期決算は完了だ」
「……ヨシュア様。……私たちは、本当に世界を変えたのですね」
サミュエルの問いに、ヨシュアは窓の外を見つめた。
そこには、もはや戦火を煽るための軍艦ではなく、平和な交易品を積んだ商船が、テムズ川を下っていく姿があった。
「……いや、これは始まりに過ぎない。……平和という名の利息は、払い続けなければすぐに滞る。……この清算は、永遠に続くのだからな」
ヨシュア・ゴールドシュミットの顔に、いつもの、だがどこか穏やかな不敵の笑みが浮かんだ。
「さあ、次の仕事だ。……次は清国の林則徐と、向こう三千年の『友好投資計画』を練らねばならん」
一人の金貸しの執念が、強欲の果てにあった滅びの未来を、力尽くで「平和な黒字」へと転換させた。
英国の霧は晴れ、東の空からは、争いのない新たな世紀の陽光が差し込み始めていた。




