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和平の徴収 ― 結ばれる異端の盟約

ロンドン証券取引所を襲った「血の入れ替え」から数日。


シティの喧騒は、かつての傲慢な熱狂とは異なる、慎重で張り詰めた静寂に包まれていた。


東インド会社の利権を支えてきた古い大黒柱たちは一本、また一本と叩き折られ、腐敗した閣僚たちの更迭が続く中、ヨシュア・ゴールドシュミットはロンドン橋に近い一軒の控えめな私邸を訪れていた。


そこには、大英帝国が派遣した公式の使節ではなく、清国から「個人的な接触」を許された秘密の使者が待っていた。


サミュエルを伴い、重厚な扉を抜けたヨシュアを待ち受けていたのは、清国の官服に身を包んだ、鋭い知性を瞳に宿す男であった。


男は名をチェンと名乗り、広東でアヘン殲滅の陣頭指揮を執る林則徐の腹心である。


「ゴールドシュミット殿。……あなたがロンドンの金融市場で起こした旋風、遠く清の地にも届いております。……一人の金貸しが、帝国の軍艦を止めたと」


陳は流暢な英語で語りかけ、茶を勧めた。


ヨシュアは椅子に深く腰掛け、その茶の香りを静かに吸い込んだ。


「止めたのではありません。……私はただ、このまま進めば崖から転落することが明白な馬車の、不備だらけの帳簿を突きつけただけです」


ヨシュアの言葉には、謙遜も誇張もなかった。


「陳殿。……私が望むのは、清国がアヘンから救われることだけではない。……清国が、大英帝国を含む欧州諸国と、対等な『経済的盟友』となることだ」


陳の眉がわずかに動いた。


「対等、ですか。……英国は我が国を『未開の市場』と見なし、無理やりこじ開けようとした。……その結果が、あの黒い毒だ」


「だからこそ、新たな決済の形を提案しに来たのです」


ヨシュアは懐から、羊皮紙に綴られた緻密な契約案を取り出し、テーブルに広げた。


「現在、英国が清国から銀を奪い取ろうとしているのは、茶の代価を支払う銀が不足しているからです。……ならば、銀という現物に依存しない、新たな『信用の裏付け』を作ればいい」


ヨシュアが指し示したのは、ロンドン、パリ、そして広東を結ぶ、国際的な『手形交換ネットワーク』の構築案であった。


「清国が英国の蒸気機関や鉄道技術、最新の織機を導入し、その代価を茶や絹の将来の出荷分で相殺する。……その決済の仲介クリアリングは、我がゴールドシュミット銀行、および私の志を共にする欧州の銀行連合が行う」


サミュエルが補足するように、別の資料を広げた。


「これは単なる貿易の仲介ではありません。……清国の近代化に必要なインフラ整備に、我々が『平和の利息』として長期低利融資を行うという提案です」


陳は身を乗り出し、資料の数字を食い入るように見つめた。


「……これが実現すれば、我が国は戦うことなく、西欧の技術を手にすることができる。……だが、英国の議会がこれを認めますか? 彼らは依然として、武力による『開港』を望んでいる」


「認めさせるのではありません。……認めざるを得ない状況デッドロックを、私が既に作り上げました」


ヨシュアの瞳に、冷徹な勝利の光が宿った。


「既にパーマストン前外相の派閥は、アヘン利権の横領疑惑で解体されました。……現在の新閣僚たちは、私という最大の『債権者』に逆らえば、翌朝の給与すら払えなくなる。……彼らに残された唯一の生存戦略は、私の提案する『平和的な経済拡大』に乗ることだけだ」


「やられたら、やり返す。……帝国の強欲が世界を壊そうとしたのなら、私はその強欲を、別の『利益』へとすり替えてやる。……略奪よりも、平和な共存の方が、長期的に見て圧倒的に『期待利回り』が高いことを、数字で証明してみせましたよ」


陳は長く沈黙した後、深々と頭を下げた。


「……林則徐様に伝えましょう。……ロンドンに、軍人よりも恐ろしく、聖者よりも冷静な、真の友人がいると」


ヨシュアは陳の手を固く握り、私邸を後にした。


外に出ると、ロンドンの煤けた空気の中に、どこか清々しい風が吹き抜けていた。


「ヨシュア様。……これで、数十年後に予測されていた凄惨な衝突は、回避されたと言えるのでしょうか」


サミュエルが馬車を待ちながら問いかけた。


「……いや、まだだ。……一度歪んだ歴史を矯正するには、絶え間ない監査が必要だ。……アヘン戦争が起きなければ、清国の国力が保たれ、アジアの均衡は維持される。……それが、後の欧州における衝突、そして世界を二分するような巨大な戦争の芽を摘むことになるだろう」


ヨシュアは、馬車の窓から、まだ平和を知らぬ市民たちが忙しなく行き交う様子を眺めた。


アヘン戦争が起きない世界。


それは、イギリスが「三枚舌」を使って中東を混乱させる必要がなくなり、植民地支配の矛盾から生じるアフリカの内戦も、イデオロギーによる冷戦の対立も、その根源を絶つことを意味していた。


不当な略奪を良しとしない、正当な「金貸し」の哲学が、人類が支払うはずだった膨大な『血の負債』を、一括返済させたのだ。


「サミュエル。……明日の朝、大蔵省に乗り込む。……再建計画の遅延損害金として、閣僚どもの腐った特権を、さらに一ダースほど没収してやる」


ヨシュアの顔に、ドラマチックな不敵の笑みが浮かんだ。


「……倍返し、などという生ぬるいものではない。……このヨシュア・ゴールドシュミットが、平和という名の利息を、骨の髄までむしり取ってやる」


馬車は、新たな歴史を刻む蹄の音を響かせ、霧の晴れたシティへと消えていった。

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