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深淵の均衡 ― シティの亡霊と新たな誓約

視界は、煤煙で濁りきっている。


1830年代末、ロンドン。

大英帝国の心臓部であるシティは、清国へのアヘン密輸という「禁断の果実」が生み出す莫大な銀に沸き立っていた。


俺――ヨシュア・ゴールドシュミットの脳内では、今、ありえない速度で演算が行われている。

かつての、あるいは未来の記憶の主である**「ダヴィド・サッスーン」**の人格なら、今の状況をこう分析しただろう。

記憶という「重し」を捨てたことで、精神の演算リソースがすべて「出力」に回された結果の、一時的な過負荷オーバーロード状態である、と。


(……だが、それだけじゃない。この数字の羅列が示す違和感は、もっと根源的な……歴史の『バグ』だ)


俺の脳内アーカイブは、今や警告のノイズで埋め尽くされている。

アヘンという劇薬を清国に流し込む。

物理的な銀が国庫に戻るたびに、世界の秩序システムは少しずつ壊れていく。

普通なら、それは「商人の利益」という美名のもとに正当化されるはずだった。


けれど。東インド会社が利権を貪るたびに、俺の胸の奥で、金貸しとしての冷徹な理性とは別の「熱」が脈動している。


『――サッスーン卿、いえ、ヨシュア様。資金流動を確認。……奇妙です。アヘン債券の引き受けを拒否するだけでなく、あなたが秘密裏に「反アヘン団体」に資金を流し始めています。……これは、人格の切り替え(スイッチ)ではなく、二つの人格が同じ一つの「熱量」を共有し始めている証拠です』


忠実な代理人の報告に、俺は無意識に口角を上げた。

論理的にはありえない。

シティの覇者としての俺と、未来の平和を願う俺は、正反対の属性を持つように俺自身が調整してきたはずだったからだ。


(……そうか。俺が平和を作ろうとしてるんじゃない。俺の中にある「こうありたい」という渇望が、システムの殻を突き破って形を成したのが、今の決断なんだ。ダヴィドの知識と、ヨシュアの怒りが一つになったのだ)


ウィリアム・ジャーディンらの旗艦が放つ、因果律を歪める不当な要求。

俺はそれを「そんな道理は通さない!」という、ただそれだけの確信で弾き飛ばす。

客観的に見れば、それは単なる妄信だ。

だが、その妄信を支えているのは、俺の理性が導き出した「この世界の経済法則は、最大級の資本を投下する観測者の意志によって上書き可能である」という極限の理論だった。


「ヨシュア様……見て。あなたが市場を書き換えてる……」


取引所で俺を見上げる家族の呟きが、意識の奥底まで届く。

記憶はない。

だが、未来の世界が「大切である」という結論だけが、消去不可能な読み取り専用データ(リードオンリー)として刻まれている。


(ジャーディン……お前が計算しているのは「過去の収益」だ。だが、今の俺たちは「今の意志」だけで動いている。……お前のシミュレーションが、俺たちの加速に追いつくことは、もう二度とない)


俺は、意識の主導権を少しずつ、冷徹な「破壊者」へと委ねていく。

それは退場ではない。

俺の理性が、平和への熱狂の「裏付け」となり、不確定な奇跡を確定した現実へと固定するための、静かなる共闘だ。


ヨシュアとダヴィド。

二つの人格が、一つの「願い」へと収束していく。

俺たちの鼓動が、ロンドンの煤けた大気を震わせ、システムの深部へと共鳴を広げていった。

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