亡国の引導 ― 絶望の最終通告
ロンドンの夜は、勝利を確信した強欲な者たちの熱狂ではなく、破滅の足音に怯える亡者たちの沈黙に支配されていた。
ゴールドシュミット銀行の正面玄関には、深夜にもかかわらず、馬車が絶え間なく横付けされていた。
降りてくるのは、シティを牛耳る重鎮たちや、大蔵省の高級官僚、そして東インド会社の筆頭株主たちである。
彼らの顔には、昼間の傲慢さは微塵も残っておらず、ただ「自分の資産が紙屑になる」という恐怖だけが、煤けた街灯に照らし出されていた。
ヨシュア・ゴールドシュミットは、あえて彼らを玄関先で待たせ、執務室で一通の書状を精査していた。
それは、清国の林則徐が広東の商館を完全に封鎖したという、決定的な電信の写しであった。
「ヨシュア様、ロビーはもはや暴動寸前です。……パーマストン外相の秘書官が、ドアを壊さんばかりに叩いています。……『ゴールドシュミットを出せ、さもなくば軍を動かす』と」
サミュエルの報告を受け、ヨシュアは静かに眼鏡を拭った。
「軍、か。……自国の通貨を守れぬ軍隊に、一体何ができるというのだ。……サミュエル、彼らを全員、会議室へ通せ。……今この瞬間、このロンドンで最も価値のある『数字』を、彼らに突きつけてやる」
会議室に足を踏み入れると、そこには帝国の繁栄を象徴する豪華な衣装を纏った男たちが、殺気立った表情で詰めかけていた。
「ゴールドシュミット! 貴様、何という大罪を犯したか分かっているのか! 保険市場を凍結させ、政府系手形の買い取りを拒否するなど、正気の沙汰ではないぞッ!!」
一人の貴族議員が、ヨシュアの胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出した。
ヨシュアは、その男の瞳の奥にある「弱さ」を見透かすように、冷たく言い放った。
「静かに。……ここは銀行です。……怒鳴り声で貸借対照表の赤字が消えるなら、私は喜んで一晩中、あなたの叫びを聞いて差し上げましょう」
ヨシュアが席に着くと、室内には刺すような静寂が訪れた。
「諸君。……あなたがたが今、最も恐れているのは、私が政府系手形を強制執行することではない。……その先に待っている『真実』だ。……見ていただきたい、この数字を」
ヨシュアは、会議室の壁一面に貼られた巨大なグラフを示した。
「現在、大英帝国が清国から輸入している茶と陶器の総額に対し、輸出できている毛織物の額は、わずか三分の一にも満たない。……その穴を埋めているのは、あなたがたが『アヘン』と呼ぶ、呪われた劇薬だ。……だが、清国は今、その流通を完全に断った。……つまり、あなたがたの『未回収債権』は、本日、一気に数千万ポンド規模で焦げ付いたことになる」
「そんなものは、武力で清国を屈服させれば解決する問題だ! 海軍を派遣し、港を開かせれば済むことではないかッ!!」
「武力? ……その遠征費は、どこから捻出するのですか?」
ヨシュアの問いかけに、議員が絶句した。
「私が引き受けを拒否した今、ロンドンの他行も追随している。……国債の発行は不可能だ。……軍艦一隻動かす石炭代すら、今の政府には支払えない。……あなたがたがアヘンという『安易な麻薬』に頼り、健全な製造業や貿易の努力を怠った結果……この帝国は、内側から腐り落ち、自ら破産への道を選んだのです」
ヨシュアは立ち上がり、テーブルの端から端までをゆっくりと見渡した。
「アヘンを売り続ければ、清国は滅びる。……だが、清国が滅びれば、英国の最大の顧客も消滅する。……そうなれば、次に滅びるのは、この島国だ。……憎しみの連鎖は海を越え、数十年後、数百年後、あなたがたの子孫は、世界中で引き起こされる紛争という名の『負債』を払い続けることになるだろう。……それでも、目先の銀が欲しいかッ!!」
ヨシュアの咆哮が、重厚な会議室の壁を震わせた。
ドラマ『半沢直樹』さながらの、剥き出しの意志が、権力者たちの欺瞞を次々と剥ぎ取っていく。
「ヨシュア・ゴールドシュミット……貴様、我々にどうしろと言うのだ」
一人の理事が、力なく問いかけた。
「条件は三つ。……一つ、東インド会社はアヘン貿易の専売権を永久に放棄し、清国への賠償を認めること。……二つ、アヘンに代わる正当な輸出品――蒸気機関、最新の織機、そして技術教育の提供による、新たな貿易協定を清国と締結すること。……そして三つ」
ヨシュアは、懐から一通の書類を取り出した。
「これまでにアヘン利権で私腹を肥やした閣僚、および議員全員の辞職。……並びに、不当利益の全額没収だ。……それができれば、ゴールドシュミット銀行は、他行を率いて英国政府の債務再編に応じよう。……信用の『貸し』を、私が作ってやる」
「……そんな条件、飲めるはずがない! 政治生命を捨てろというのか!」
「捨てなければ、生命そのものがなくなる。……私が手を離した瞬間、シティの門前には怒れる納税者と、暴落で破産した市民たちが押し寄せるぞ。……あなたがたが絞首台へ送られるか、それともこの国を延命させるか……選ぶのは今だッ!!」
ヨシュアは、目の前の机を激しく叩いた。
その凄まじい気迫に、居並ぶ重鎮たちは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「次官。……パーマストン卿に伝えなさい。……『倍返し』は、まだ終わっていない。……もしこの条件を拒むなら、私はあなたがたの隠し口座のすべてを、明日のモーニング・ポスト紙の一面に掲載する。……そうなれば、死に物狂いの国民が、あなたがたを直接裁きに来るだろう」
トレヴェリアン次官は、真っ白な顔で頷くのが精一杯であった。
ヨシュアは、彼らが震える手で合意文書の写しを持ち帰るのを、氷のような瞳で見送った。
「サミュエル。……これで、歴史の歯車は別の方向へ回り始める」
「ヨシュア様……。これは、本当に世界を救うことになるのでしょうか」
「救えるかどうかは、これからの『帳簿』次第だ。……だが、少なくとも、毒で市場を焼き尽くすような真似だけは、二度とさせない。……正当な取引によって、世界を結び直す。……それが金貸しの、最後にして唯一の『償い』だ」
ヨシュアは独り、深夜の窓辺に立ち、霧の向こうに広がる未来を想った。
アヘン戦争が回避され、不平等条約が存在しない世界。
それは、後の世界大戦をも防ぎ、中東やアフリカに刻まれるはずだった悲劇の境界線を、あらかじめ消し去るための第一歩であった。
ヨシュア・ゴールドシュミット。
彼の戦いは、今、一つの極限へと達しようとしていた。




