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強欲の代償 ― 凍りついた海運利権

ロンドンのシティを流れるテムズ川の川面は、どす黒い油と煤にまみれ、帝国の欲望を飲み込む深淵のようにうねっていた。


ヨシュア・ゴールドシュミットは、自らが仕掛けた「保険拒絶」の連鎖が、シティの心臓部を麻痺させていく様を静かに見守っていた。


保険がなければ、商船はただの動く棺桶に過ぎない。


ましてや、清国側の林則徐が「アヘンを積んだ船はすべて焼き払う」と宣言している以上、保険の裏付けを失った東インド会社の船団は、一歩もドックを出られない「不良債権の塊」と化していた。


サミュエルが血相を変えて、ヨシュアの執務室に飛び込んできたのは、その日の午後が傾きかけた頃だった。


「ヨシュア様! シティの保険市場がパニックに陥っています! 東インド会社の主要な荷主たちが、運航停止による損失補填を求めて、保険各社に殺到しているようです!」


「当然の結果だ。サミュエル、彼らが必死に守ろうとしていたのは『アヘンの利益』ではない。自らの『支払い能力』だ」


ヨシュアは羽ペンを走らせる手を止め、窓の外を指差した。


「見てみろ。あのテムズに浮かぶ船の帆は、もはや帝国の栄光ではなく、未払いの債務デットを象徴している。……連中は今頃、清国に毒を売るどころか、明日の手形を落とすために、身内の資産を食いつぶし始めているはずだ」


ヨシュアの予測通り、東インド会社の取締役会は、かつてない危機の淵に立たされていた。


アヘン密売を請け負う「ジャーディン・マセソン」をはじめとした商社群は、保険の格下げによって、海軍による公式な護衛すら受けられなくなる可能性に震え上がっていた。


「ヨシュア様、先ほど……大蔵省の次官が直々に来訪されました。……パーマストン外相の特使として、貴殿と直ちに交渉したいと」


サミュエルの報告に、ヨシュアの唇が冷酷な三日月を描いた。


「特使、か。……ついに、帝国の看板を背負った亡者どもが、自らの喉元に突きつけられた刃に気づいたようだな」


ヨシュアは椅子から立ち上がり、誇り高き銀行家の正装を整えた。


「通せ。……ただし、応接室ではない。……この、数字ですべてが決まる『審判の部屋デスク』へな」


数分後、部屋に現れたのは、磨き上げられた革靴と高慢な威厳を纏った中年男、アーネスト・トレヴェリアン次官であった。


彼は入室するなり、威圧的にステッキを床に打ち鳴らした。


「ゴールドシュミット! 貴様の仕掛けた姑息な工作のせいで、シティの秩序が崩壊しかけている! 国家の基幹事業である東インド会社の海運を妨害した罪は、決して軽くはないぞッ!!」


ヨシュアは表情一つ変えず、目の前の椅子を指差した。


「お座りください、次官。……威勢がいいのは結構ですが、まずはあなたのポケットに入っている、東インド会社からの『配当金明細書』を隠してからにされてはいかがです?」


トレヴェリアンの顔が、瞬時に怒りで朱に染まった。


「な……ッ!? 貴様、何を無礼なことを……!」


「無礼なのは、どちらの方だ」


ヨシュアの声が、一瞬にして部屋の温度を氷点下まで下げた。


「あなたがた大蔵省が、アヘン貿易から得られる血にまみれた銀を当てにして、どれほど杜撰な国家予算を組んでいるか、私はすべて把握している。……清国との貿易不均衡を埋めるために、無辜の民に毒を売り、その利益を国家の『雑収入』として処理する。……そんな、粉飾まみれの国家経営を、誰が認めるとお思いですか」


ヨシュアは一冊の分厚い帳簿を、トレヴェリアンの目の前に叩きつけた。


「これは、私が私財を投じて調査させた、過去十年の東インド会社による清国内での賄賂と汚職、そして不法投棄の全記録だ。……これがパリの証券取引所、あるいはアムステルダムの金融市場に流れば、イギリス国債の信用クレジットは暴落する」


「貴様……本気で、大英帝国を敵に回すつもりか!?」


トレヴェリアンが震える声で叫ぶ。


「敵に回す? ……心外ですね。私は、この国を救おうとしているのです」


ヨシュアは、蛇のような鋭い眼差しで次官を射抜いた。


「今ここで、アヘンという名の安易な利益に頼ることをやめなければ、この国は、いずれ世界中から怨嗟の的となる。……奪った銀はやがて弾丸となり、あなたがたの子孫へと返ってくるだろう。……私は、そんな『負の連鎖』を、私の世代で断ち切りたい。……金貸しとして、負債を先送りにすることは、絶対に許せないのです」


「理想を語るな! 清国が銀を出し渋るから、我々はこうするしかないのだ!」


「ならば、正当な商売をすればいい! 技術を磨き、品質を高め、誠実に市場を開拓する。……それができない無能な経営陣リーダーを、私はこの市場から一掃する。……それが私のやり方だ」


ヨシュアは一歩、トレヴェリアンに近づき、耳元で低く囁いた。


「次官。……明日の朝までに、パーマストン卿へ伝えなさい。……『アヘン船団の運航を永久に停止し、清国への賠償交渉を開始する』という宣言を行わない限り、私はゴールドシュミット家が保有する、あらゆる政府系手形を強制執行にかける」


「そんなことをすれば、政府は支払停止を宣言するだけだ!」


「やってみるがいい。……その瞬間、英国政府は国際的に『デフォルト(債務不履行)』とみなされる。……シティの全銀行が窓口を閉め、ポンドは紙屑同然の価値になる。……その混乱の責任を、あなたは取れるのか?」


トレヴェリアンは言葉を失い、持っていたステッキをガタガタと震わせた。


ヨシュア・ゴールドシュミット。


一人の銀行家が持つ「信用」という名の武器が、軍艦の砲撃よりも重く、帝国の喉元に食い込んでいた。


「……やられたら、やり返す。……帝国が私に『営業停止』を突きつけるというのなら、私は帝国に『破産バンクラプシー』を突きつける。……それだけのことだ」


ヨシュアは冷酷に言い捨て、扉を指差した。


「次官。……時計の針は、もう止まらない。……残された時間は、あと十二時間だ」


トレヴェリアンは、まるで亡霊に追いかけられるかのように、転がるようにして部屋を飛び出していった。


静まり返った執務室で、サミュエルが深く息を吐いた。


「ヨシュア様……本当に、引き返せない道に来てしまいましたね」


「道など、最初から一つしかなかった。……サミュエル、電信を送れ。……パリ、ウィーン、そして広東へ。……『ロンドンの霧は、間もなく晴れる』とな」


ヨシュアは再び椅子に座り、夜の闇に沈みゆくロンドンを見つめた。


アヘン貿易の廃止。


それは単なる商売の停止ではない。


強欲によって捻じ曲げられた歴史の針を、正しい位置へと戻すための、世界で最初の「正しい決算」であった。


ヨシュアの瞳には、燃え上がるアヘンの炎ではなく、いつか訪れるであろう、争いのない静かな海原が映っていた。

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