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議事堂の死神 ― 帳簿に隠された買収工作

ロンドン・シティの冷たい霧が、ウェストミンスター宮殿の尖塔を不気味に隠していた。


ヨシュア・ゴールドシュミットは、馬車の窓から、権力の象徴であるその建物を見つめていた。


証券取引所での債券暴落は、あくまで敵の兵站を断つための前哨戦に過ぎない。


アヘン貿易という名の巨大な犯罪を止めるためには、その根源であるイギリス議会、そして利権を貪る政治家どもの息の根を物理的に止める必要がある。


「ヨシュア様、準備は整いました。……例の裏帳簿、および東インド会社から各議員への献金リストを、匿名で『モーニング・ポスト』紙の編集長へ届けさせてあります」


向かい側に座るサミュエルが、落ち着いた、しかし確信に満ちた声で告げた。


「良かろう。……だが、新聞に出るまで待つつもりはない。……連中が今日の午後の審議で『清国への武力行使』を決定する前に、議事堂をパニックに陥れてやる」


ヨシュアは、膝の上に置いた革の鞄を軽く叩いた。


そこには、昨夜遅くまでかけて整理された、外務大臣パーマストン卿を含む推進派議員たちの個人負債に関する詳細な資料が収められていた。


馬車が議事堂の門前に止まり、ヨシュアはゆっくりと大地を踏みしめた。


「サミュエル、お前はここで待て。……ここから先は、金貸しの汚い仕事だ」


ヨシュアは独り、権威という名の虚飾に満ちた回廊を歩み始めた。


重厚な扉を開け、彼が足を踏みしたは、議員たちが審議の合間に休息を取るロビーであった。


そこには、アヘン貿易の拡大によって膨大な利益を約束されている、保守派の重鎮たちが集まっていた。


「……おい、あれはゴールドシュミットではないか? 何故あのような男がここにいる」


一人の議員が、不快そうに眉をひそめた。


だがヨシュアは、周囲の冷ややかな視線を一瞥もせず、真っ直ぐにターゲットへと歩み寄った。


ターゲットは、下院議員アーサー・ハミルトン。


東インド会社の利権を議会で代弁する、アヘン戦争開戦の急先鋒である。


「ハミルトン議員。……少々、積もる話がありましてね」


ヨシュアの低い声が、華やかな談笑を凍りつかせた。


「……貴様か。証券取引所で我が国の経済を混乱させた売国奴が、何の用だ。衛兵を呼ぶ前に立ち去れ」


「売国奴、ですか。……国を売っているのは、清国の民の命をアヘンと引き換えに銀に変え、その一部を自分のポケットに入れている、あなた方のことではないか?」


ヨシュアは平然と言い放ち、鞄から一枚の紙を取り出した。


「これは……ハミルトン議員。……あなたがバミューダの海運株で失敗し、現在ゴールドシュミット銀行の関連会社に対して負っている、三万ポンドの借用書の写しです」


ハミルトンの顔が、瞬時に土色に変わった。


「な……っ!? 何の話だ、そんなものは知らないッ!!」


「とぼけても無駄です。……この借用書には、あなたの署名と、担保として差し出された東インド会社の未公開株の記録もしっかりと残っている。……本来、国会議員が利益相反となる会社の株を担保に借金をするのは、重大な法に抵触する行為のはずですが?」


周囲の議員たちが、ざわめき始める。


ヨシュアは、逃げ場を失ったネズミを観察するような冷徹な瞳で、ハミルトンを追い詰めていく。


「さらに面白いことに、この三万ポンドの返済期限は本日だ。……返せますか? 債券が暴落し、あなたの担保価値がゼロになった今、この金を即座に用意できるのですか?」


「そ、それは……っ!!」


「返せないのであれば、私は今この場で、あなたの破産を申し立てる。……破産した人間に、議場に立つ資格はありません。……もちろん、あなたが今日、清国への武力行使案に反対を投じるというのであれば、利息の支払いを待つ程度の融通は利かせますがね」


「貴様……ッ!! 卑怯な真似を……ッ!!」


「卑怯? 心外ですね。……私はただ、期日通りに金を返せと言っているだけだ。……金貸しとして、当たり前の要求をしているだけですよ」


ヨシュアは冷たく言い捨てると、動揺するハミルトンを放置し、次の獲物へと視線を向けた。


ロビーにいた推進派の議員たちは、一人、また一人と、ヨシュアの手元にある鞄の中身に怯え、視線を逸らしていく。


「さて、次はどなただ? ……まだ私の帳簿には、書き切れないほどの名前が並んでいる」


ヨシュアの背後で、議場の開門を告げる鐘が鳴り響いた。


だが、そこへ向かう議員たちの足取りは、先ほどまでの傲慢さを失い、まるで断頭台へ向かう罪人のように重く、沈んでいた。


ヨシュアは、その光景を嘲笑うこともなく、静かに見送った。


彼の戦いは、まだ終わらない。


大英帝国の野欲を支える土台を、一柱ずつ確実にへし折るまで。

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