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信用の崩落 ― 宣告されるデフォルト

ロンドン証券取引所の喧騒が、この日は朝から異様な熱を帯びていた。


石造りの円柱が並ぶ取引所の広間には、絹の帽子を被った仲買人たちが殺到し、怒号に近い買い注文と売り注文が交錯している。


その混乱の中心にあるのは、昨日まで「大英帝国の不沈艦」と謳われていた東インド会社の債券価格だった。


ヨシュア・ゴールドシュミットは、取引所の二階にある特別観覧席から、無表情にその光景を見下ろしていた。


彼の手元には、今朝発行されたばかりの『タイムズ』紙がある。


そこには、ゴールドシュミット銀行が「東インド会社関連債券の引き受けを全面的に停止する」という、金融界に激震を走らせる公告が掲載されていた。


「ヨシュア様、市場はパニックに陥っています。……我々が投げ捨てた債券を、誰も拾おうとしません」


サミュエルが報告する。


その声は緊張で震えていた。


「当然だ。信用の裏付けを失った紙切れなど、暖炉の焚き付けにもなりはしない。……サミュエル、次の手を打て。パリのロチルド、アムステルダムのホープ商会へ、我々が掴んだ『アヘン貿易の不良債権化』の資料をすべて流せ」


「承知いたしました。……ですが、政府が黙ってはいないでしょう。先ほど、大蔵省の役人が当行の支店に現れたとの情報が入っています」


「来させておけ。……数字で語れぬ役人に、私の時間を割くつもりはない」


ヨシュアは冷徹に言い捨て、眼下の狂乱を眺め続けた。


東インド会社の債券価格は、取引開始からわずか一時間で十五パーセントも暴落していた。


これは、単なる株価の変動ではない。


「大英帝国が保証する利益」という、投資家たちが盲信していた神話が、一人のユダヤ人銀行家の手によって解体されつつあることを意味していた。


その時、特別席の扉が荒々しく開かれた。


現れたのは、顔を真っ赤に上気させたチャールズ・パーキンス理事と、その背後に控える武装した憲兵たちであった。


「ゴールドシュミット! 貴様、何という真似をしてくれたのだッ!!」


パーキンスの絶叫が、高い天井に反響する。


ヨシュアはゆっくりと椅子を回転させ、憤怒に震える老人を静かに見つめた。


「これはパーキンス理事。取引所の床が抜けるほどの暴落だというのに、随分と余裕をお持ちのようだ」


「ふざけるな! 貴様が虚偽の情報を流布したせいで、我が社の信用は失墜し、清国への遠征資金も凍結された! これは国家に対する反逆、反英行為だぞッ!!」


「虚偽、ですか。……では、ベンガル地方の惨状も、清国内での密輸ネットワークの腐敗も、すべて私の作り話だと仰るのですか」


ヨシュアは立ち上がり、一歩、パーキンスの方へ歩み寄った。


その威圧感に、パーキンスは思わず後ずさる。


「私は金貸しだ。……金貸しにとって最大の罪は、返せる見込みのない者に金を貸すこと。そして、それ以上に重罪なのは、粉飾された帳簿を元に市場から金を騙し取ることだ」


「黙れ! 帝国の繁栄に犠牲は付き物だ! 貴様のような流れ者に、我々の崇高な使命が理解できてたまるかッ!!」


「崇高な使命? ……笑わせないでいただきたい」


ヨシュアの唇が、三日月のような鋭い弧を描いた。


「あなたがたが数えている銀貨の表面には、アヘンで廃人となった清国人の涙と、飢え死にしたベンガル農民の血がこびりついている。……その汚れた金を、我が銀行の清浄な金庫に入れるわけにはいかない。……それが、私の『銀行家としての矜持』です」


「貴様……ッ!! 憲兵、この男を捕らえろ! 証拠捏造と市場攪乱の疑いで連行しろ!」


パーキンスの命令に従い、憲兵たちがヨシュアの周囲を囲む。


だが、ヨシュアは眉一つ動かさなかった。


「捕らえるのは勝手ですが、パーキンス理事……その前に、これを確認された方がよろしい」


ヨシュアは懐から一通の電信の写しを取り出し、パーキンスの胸元に叩きつけた。


「それは……なんだ」


「パリの証券取引所からの最終通告だ。……フランス銀行は、東インド会社発行の手形の割引を拒否した。さらに、アムステルダム、フランクフルトの各市場も、英国債の格下げを検討し始めている」


パーキンスの顔から、一気に血の気が引いていく。


「バカな……そんな短期間で、欧州中の市場が動くはずが……」


「信じられないなら、ご自分の目で確かめればいい。……あなたがたが清国という弱者を食い物にしている間、私は欧州の真の強者たちと握っていたのですよ。……平和な市場を望むのは、私だけではない。……戦火を撒き散らし、既存の流通を破壊するあなたがたのような存在は、国際金融界にとっての癌なのです」


ヨシュアは、呆然と立ち尽くす憲兵たちの間を、悠然と通り抜けた。


「パーキンス理事。……あなたがたの負債は、利息を含めてすべて私が回収させていただきます。……やられたら、やり返す。……借りを返すまでは、地獄の果てまで追い込みをかけるのが、我々ゴールドシュミットの家訓でしてね」


パーキンスは力なく膝をつき、手にした電信を震える指で握りしめた。


一階のフロアからは、ついに東インド会社のデフォルトを懸念する絶望的な悲鳴が上がり始めていた。


ヨシュアは取引所の重厚な玄関を出て、ロンドンの冷たい空気を深く吸い込んだ。


「サミュエル。次は議会だ。……アヘンを推進する議員たちの財布の中身を、すべて白日の下に晒してやる」


「御意。……ヨシュア様、これこそが、本当の倍返しですね」


「いや……まだ足りない。……奪われた平和の価値を、連中に骨の髄まで理解させるまではな」


一人の男の執念が、大英帝国の野望という名の巨象を、今、確実に引き倒そうとしていた。


ヨシュア・ゴールドシュミットの孤独な戦いは、ここからさらなる佳境へと突入する。

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