深淵の貸借対照表 ― 腐敗した重鎮の目算
ロンドン証券取引所の喧騒が、遠く地鳴りのように聞こえる。
ゴールドシュミット銀行の応接室には、高級な葉巻の煙が重く立ち込めていた。
ヨシュア・ゴールドシュミットは、目の前に座る初老の男を冷徹な眼差しで射抜いていた。
男の名はチャールズ・パーキンス。
東インド会社の理事であり、議会下院にも強い影響力を持つ、いわゆる「アヘン推進派」の黒幕の一人である。
「……ヨシュア君、君のやり方は少々、乱暴が過ぎるのではないかね」
パーキンスは、銀の細工が施された杖を膝の上で転がしながら、不快そうに口を開いた。
「証券取引所であれほどの投げ売りを仕掛ければ、我が社の株価だけでなく、シティ全体の信用に関わる。君も英国の経済を担う一人だろう。自ら首を絞めるような真似をして何になる」
ヨシュアは、微塵も表情を動かさず、ティーカップをソーサーに戻した。
カチリ、という硬質な音が、張り詰めた空気の中に響く。
「首を絞めているのは、私ではありません。パーキンス理事、あなた方だ」
「何だと?」
「あなた方が清国へ流し込んでいるアヘン。その代価として回収される銀は、一見すれば帳簿上の利益を潤すでしょう。だが、その背後で、清国の広大な市場がどれほど急速に壊死しているか、計算したことはありますか」
ヨシュアはデスクの引き出しから、一通の報告書を取り出し、パーキンスの前に滑らせた。
そこには、独自のルートで入手した広東周辺の経済統計と、依存症に苦しむ住民たちの実態が、冷徹な数字として書き連ねられていた。
「清国の国庫が空になれば、彼らは英国の綿製品も、工業製品も、何一つ買えなくなる。短期的な銀の回収のために、将来的な市場そのものを焼き払う。……これが、世界一の商会を自称する東インド会社のやり方ですか」
パーキンスは鼻で笑い、報告書を一瞥もせずに跳ね除けた。
「理想論だ。商売の本質は今、目の前にある利益を確実に掴むことにある。清国人が毒に溺れようが、市場が死のうが、我々が銀を手に入れ、帝国の通貨制度を維持できればそれでいい。それが統治というものだ」
「統治、ですか。……その言葉、このヨシュア・ゴールドシュミットが全力で否定させていただきます」
ヨシュアの声が、一段と低くなった。
「あなた方が清国で行っているのは、商売ではない。ただの略奪だ。そして、略奪に基づいた繁栄は、必ず報復の連鎖を生む。いずれ清国がこの不条理に抗って立ち上がったとき、英国が支払うことになる戦費は、今得ている利益の数十倍に膨れ上がるでしょう。……そのとき、誰がその負債を背負うのですか。納税者ですか、それとも我々銀行家ですか」
「ふん、清国如きが英国の軍艦に敵うはずがなかろう。……ヨシュア君、忠告しておく。君がどれほど理屈を並べようと、議会はすでにアヘン貿易の拡大へと舵を切った。陛下のご意向に近い話でもあるのだ。一介の金貸しが逆らえる流れではないのだよ」
パーキンスは勝ち誇ったように立ち上がり、出口へと向かった。
「君の銀行がこれ以上、市場を攪乱するなら、政府は君の営業免許を剥奪することすら検討するだろう。……賢い選択をすることだ」
パーキンスが去り、重厚な扉が閉まると、影に控えていたサミュエルが不安げな表情で歩み寄った。
「ヨシュア様……やはり、正面突破は無茶です。大蔵省までもが連中の味方をしているとなれば、我々の資金力だけでは対抗しきれません」
「サミュエル、敵の強みは、そのまま最大の弱みになる」
ヨシュアは立ち上がり、大きな窓からテムズ川の流れを見つめた。
「連中は、国家の威信と結びつくことで、自らの事業を不倒だと思い込んでいる。だが、国家予算の裏付けがあるということは、納税者や投資家に対して、常に説明責任を負っているということだ。……連中がひた隠しにしている負の資産を、白日の下に晒してやる」
「負の資産、ですか?」
「ああ。東インド会社がベンガル地方で行っているケシ栽培の強制転換……それによって引き起こされた大飢饉。そして、アヘン利権を維持するために、どれほどの賄賂が議会議員たちに流れているか。……その総額を、ロンドン中の主要紙、およびパリやアムステルダムの市場に流す」
ヨシュアの瞳には、冷徹な計算が走っていた。
19世紀の国際金融は、複雑に絡み合っている。
ロンドンの不祥事は、瞬時に欧州各国の信用の格下げを招く。
「サミュエル。すぐに、我がゴールドシュミット銀行が保有する東インド会社の債券……そのすべてを不良債権として分類しろ」
「な……っ!? そんなことをすれば、我々の資産価値まで暴落します!」
「構わない。身を切らねば、怪物の喉笛は叩けない。……我々が先頭を切ってこの債券には価値がないと宣言すれば、市場は疑心暗鬼に陥る。格付けを操作し、パニックを演出し、連中の資金調達能力を根底から破壊する」
ヨシュアは再び、デスクの上の帳簿を開いた。
そこには、パーキンスら利権集団が隠し持っている裏口座の断片が、緻密なパズルのように配置されていた。
「やられたら、やり返す。……いや、奪われた銀の重さを、彼らの骨身にまで刻み込ませてやる」
その夜、ヨシュアは一通の親書をしたためた。
宛先は、当時の金融界のもう一人の巨頭であり、政府に対しても強い発言権を持つネイサン・ロスチャイルドであった。
ライバルであり、かつてはしのぎを削った仲でもある彼に、ヨシュアはあえてこう綴った。
『平和な市場こそが、永劫の利を生む。……泥にまみれた銀か、それとも百年の信用か。選ぶのは今だ』
キャンドルの炎が揺れ、ヨシュアの横顔を深く、鋭く照らし出す。
明日、ロンドン証券取引所が開場すると同時に、第二の爆撃が始まる。
それは、大英帝国の根幹を支える東インド会社という巨大な歯車を、物理的に停止させるための、金貸しによる命懸けの反逆であった。
「パーキンス理事。あなたがたが王道だと言うのなら……私は、その王道という名の欺瞞を、金融という名の真実で粉砕してみせる」
ヨシュアは、静かにペンを置いた。
1830年代の静かな夜が、嵐の前触れのように深まっていく。
彼の戦いは、もはや一企業の争いではない。
歪んだ時代そのものを、正当な決算によって清算するための、孤独な戦争となっていた。




