表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/60

鋼の決算 ― 泥にまみれた銀の行方

ロンドンの空を厚く覆う煤煙は、清国から届く茶の香りを無慈悲に塗り潰していた。

1830年代、大英帝国の繁栄を支える心臓部「シティ」は、その実、深刻な貧血状態に陥っていた。

清国との貿易不均衡――茶、絹、陶器といった贅沢品の輸入に対する支払いは、すべて現物の「銀」で行われていた。

年間数百万オンスに及ぶ銀の流出は、帝国の通貨制度を根底から揺るがし、国庫を枯渇させつつあった。


ヨシュア・ゴールドシュミットは、自室の重厚なマホガニーのデスクに広げられた、東インド会社に関連する最新の貸借対照表バランスシートを凝視していた。

その眼光は、鋭利な外科刀のように数字の羅列を切り裂いていく。

数字は、決して嘘をつかない。

だが、その数字の背後にある「血」までは、帳簿には記載されない。

ヨシュアが指先でなぞったのは、不自然に肥大化した「雑収入」の項目であった。


「ヨシュア様、東インド会社の専売利権に関わる秘密議事録の写しを手に入れました。……連中、いよいよなりふり構わなくなってきています」


傍らに控える腹心の秘書、サミュエルが声を潜めて報告する。

サミュエルが差し出した書類には、広東の港を通じて清国内へ「アヘン」を密輸し、対価として大量の銀を回収するという、国家規模の麻薬密売計画の全容が記されていた。


「広東での銀の回収を加速させるため、例の『黒い土』の供給量を昨対比で四割増やす算段です。すでにインドのベンガル地方では、食料農地を強制的にケシ畑へ転換させ、数万人単位の小作農を飢餓に追い込んでいます」


ヨシュアは羽ペンを置き、組んだ指の上に顎を乗せた。

部屋の暖炉で爆ぜる薪の音が、静寂の中で不気味な鼓動のように響く。

彼の瞳に映っているのは、シティの煌びやかな夜景ではない。

毒に侵され、生活を破壊される異国の民の叫びと、それを「貿易の活性化」という言葉で包み隠し、肥え太る英国貴族たちの醜悪な欲望であった。


「銀一オンスのために、一人の人間の尊厳を奪う。……それが、連中の誇る『自由貿易』の正体か」


ヨシュアの声は低く、そして凍てつくような殺気を孕んでいた。

彼は知っている。 この「アヘン」という名の劇薬こそが、帝国の粉飾された決算を埋めるための最後の手段であることを。

そして、その強引な押し売りが、やがて巨大な戦火となって世界を焼き尽くすであろうことを。


「サミュエル。大蔵省と東インド会社の癒着は、もはや末期症状だ。連中は、アヘンから得られる血にまみれた利益を『公共の福祉』と呼び、議会を懐柔している。だが、彼らは致命的な計算違いをしている」


「計算違い、と言いますと?」


ヨシュアは立ち上がり、壁に掛けられた巨大な世界地図を見つめた。


「彼らは『需要があるから売る』と言う。だが、市場に供給されているのは商品ではなく『依存』だ。依存によって作られた市場は、一度崩れれば歯止めが利かない。連中の帳簿ブックは、いずれその負債に耐えきれなくなる。……銀を失う恐怖に駆られた亡者どもに、本物の『貸し』の恐ろしさを教えてやる必要がある」


ヨシュア・ゴールドシュミットという男は、単なる慈善家ではない。

彼は「ゴールドシュミット家」という、シティでも屈指の信用を誇る金融資本の当主だ。

彼にとって、非道な手段で市場を歪める行為は、経済という名の「神聖なる秩序」に対する最大の冒涜であった。


「私がこれまでに積み上げた信用のすべてを、市場への『弾丸』に変える。

……ターゲットは東インド会社の長期債券、そしてアヘン密輸を請け負う商社『ジャーディン・マセソン』の信用格付けだ」


サミュエルは息を呑んだ。

それは、大英帝国の国策そのものに正面から喧嘩を売ることを意味する。

失敗すれば、ゴールドシュミット家は反逆罪で処刑されるか、あるいは資産を没収され路頭に迷うことになるだろう。


「ヨシュア様……それはあまりにも危険です。相手はパーマストン卿をはじめとする政界の重鎮。彼らが一言命じれば、我々の銀行など一日で潰されます」


「サミュエル、勘違いするな。私は正義のために戦うと言っているのではない」


ヨシュアは振り返り、鋭い笑みを浮かべた。

その表情は、まさに獲物を追い詰める冷徹な「金貸し」のそれであった。


「私は、不当な取引によって市場を汚した連中に、相応の『遅延損害金』を請求しに行くだけだ。……やられたら、やり返す。それが金融界の鉄則だろう?」


翌朝。

ロンドン証券取引所は、いつにも増して熱気に包まれていた。

清国へのアヘン供給増のニュースが投資家たちの間で噂され、東インド会社の株価は根拠のない期待感で高騰していた。

欲望に目を血走らせた仲買人たちが、我先にと買い注文を叫ぶ。


その喧騒の渦中、ヨシュアは二階のテラス席から、下界の「市場」を見下ろしていた。

彼は手元の時計を確認し、静かに頷いた。


「始めろ」


その合図とともに、市場の至るところで、ある「噂」が流れ始めた。

清国の皇帝が、アヘン密売を厳罰に処すための特使を派遣し、すべての密輸船を沈める準備をしている。


さらに、ゴールドシュミット家をはじめとした主要な引受人が、東インド会社の債券の借り換え(ロールオーバー)を拒絶した。


瞬時に、市場の空気が変わった。

高騰していた株価が、一瞬の静止のあと、滝のような落下の兆しを見せ始める。


「な、なんだ!? 誰が売っている!?」

「ゴールドシュミットだ! あそこの連中が、全ポジションを投げ捨てているぞ!」


取引所の中心で、パニックが連鎖していく。

ヨシュアは、手すりを掴む手に力を込めた。


これは、まだ序章に過ぎない。

彼が狙うのは、単なる利益ではない。


この不浄なマネーゲームそのものを、根底から破壊し、帝国の傲慢な野心に「破産」の二文字を突きつけることにある。


「パーマストン卿。……あなたが椅子にふんぞり返って数えている銀の山。それが、明日にはただの石ころに変わる様を、特等席で見せてやろう」


ヨシュアの低い呟きは、怒号と悲鳴が入り混じる取引所の喧騒に、静かに、だが確実にかき消されていった。

大英帝国の心臓部が、一人の金貸しの「倍返し」によって、今、激しく脈打ち始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ