無自覚なシナモンロール(後編)
「期待した方でなくてすみませんた。」
郵便配達員の困ったような笑顔に、紬は目をぱちぱちと瞬かせた。
「え……?」
「違いました?」
「い、いえ……。」
否定しようとして、言葉が続かない。自分ではそんなつもりはなかった。
けれど、ベルが鳴った瞬間、胸が少し高鳴ったのは事実だった。
郵便配達員は「失礼しました」と笑って帰っていく。紬は封筒を抱えたまま、その場に立ち尽くした。
「紬ちゃん。」
厨房から千鶴が顔を出す。
「どうしたの?」
「……そんなに分かりやすいのかな。」
「何が?」
「いえ、何でもない。」
紬は慌てて首を振った。こんな気持ちを口にしたら、きっと笑われてしまう。恋と言ってしまうには、なんだかむず痒い。
午後四時を回る頃には、西日が店の床を長く照らしていた。焼き上がったシナモンロールは残りわずか。甘く香ばしい香りが店いっぱいに漂う。
カラン。
再びベルが鳴る。
「こんにちは。」
今度こそ、その人の声だった。無造作にまとめられたハーフアップ。眼鏡にいつもの麻のスーツ姿。蓮が軽く会釈をしながら店へ入ってくる。
「こんにちは。」
紬も自然と笑顔になる。さっきわかりやすすぎて失敗したので、勤めて顔に出ないようにする。
「今日は少し遅かったですね。」
口をついて出た言葉に、紬は「あっ」と小さく息をのむ。まるで待っていたと言っているようだ。蓮は気づいた様子もなく、肩をすくめた。
「職員会議が長引いてしまって。」
「そうだったんですね。」
「先生方って、会議が多いんですね。」
「想像以上でした。」
二人は顔を見合わせて笑う。会話のテンポが心地よい。二言くらいの会話に、不思議と心がほどけていく。
蓮はショーケースを眺めた。
「今日はこの渦巻きのパンですか。」
「シナモンロールです。」
「きれいですね。」
紬は少し嬉しそうに頷く。
「同じように作っても、一つずつ少しずつ違うんです。」
「パンの個性ですね。」
その言葉に、紬は目を丸くした。
「私も今朝、同じことを考えていました!」
「本当ですか。」
「はい。」
蓮はシナモンロールを見つめながら微笑む。
「英語の授業でも思うんです。同じことを教えても、受け取り方は一人ひとり違う。」
「パンも同じです。」
「「不思議ですね。」」
声が重なって、二人はまた笑った。
紬がシナモンロールをパン棚に並べていると、不意に指先からイメージが伝わってくる。
——少し疲れている。
——ちゃんと眠れていない。
そんな感覚が、一瞬だけ胸をよぎった。紬は蓮の顔を見る。昨日より元気そうだ。
けれど、目の下にはまだうっすらと疲れが残っている。「無理しないでください」と言うべきか迷う。結局、その言葉は飲み込んだ。
心配されすぎるのは、相手にとって負担になることもある。代わりに、シナモンロールをもう一度見つめて言った。
「今日のおすすめです。」
「じゃあ、それを一つ。」
「疲れた日には、温かい紅茶と一緒に食べるとおいしいですよ。」
蓮は少し驚いたように笑う。
「実は昨日から紅茶ばかり飲んでいるんです。」
「そうなんですか。」
「なんとなく気に入っています。」
「じゃあ、ぴったりですね。」
紬も笑う。パンが教えてくれたことは言わない。
ただ、パンを通してそっと伝える。それが紬なりの方法だった。
会計を済ませても、蓮はすぐには帰らず、立ち話をする。蓮は店の窓から坂道を眺めていた。
「この町、夕方がきれいですね。」
「私も好きです。」
鐘の音が、遠くのお寺から響いてくる。
ゴーン……。
ゆっくりと町を包む音。
「岡山のお寺でも、この時間になると鐘を撞いていました。」
蓮は懐かしそうに目を細める。
「実家を思い出します。」
「先生のお寺、一度見てみたいです。」
紬は何気なく言ってから、私は今とんでもないことを言ったのでは?と少し照れた。
「立派なお寺じゃないですよ。」
「きっと素敵だと思うんです」
蓮はその言葉が少し嬉しかった。彼女に自分の育った場所に興味を持ってもらえたことが。それだけで、胸の奥が温かくなる。
店を出た蓮は、数歩歩いてから振り返った。紬は店先で、今日も見送ってくれている。目が合うと、蓮が小さく会釈をした。紬も笑って会釈を返す。手は振らない。
その控えめなやり取りが、二人には心地よかった。
閉店後。
紬は売れ残ったシナモンロールを一つ切り分け、千鶴と紅茶を飲んでいた。
「今日、藤代先生来たね。」
「うん。」
「紬ちゃん、なんだか嬉しそうだった。」
紬は紅茶を飲みながら、小さく笑う。
「シナモンロール、気に入ってくれたみたい。」
「それだけ?」
「それだけに決まってるでしょ。」
そう答えたものの、胸の奥では違う声がしていた。
『来てくれて、嬉しかった。』
その気持ちは、まだ誰にも言えない。窓の外では、夕焼けが群青色へと変わり始めていた。
明日も、あのベルが鳴るだろうか。
そんなことを考えながら、紬は湯気の立つ紅茶にそっと口をつけた。




