星空のあんバターフランス(前編)
朝五時半。ククノチの厨房では、フランスパンの生地をこねる音だけが静かに響いていた。紬は両手で生地を押し、折りたたみ、また押す。
外はまだ薄暗い。窓の向こうには、海の上へゆっくりと朝日が昇り始めていた。
フランスパンは難しい。水分量が多く、ほんの少し手を抜くだけで食感が変わってしまう。
それでも紬は、この生地に触れている時間が好きだった。正直だから。急げば急いだ分だけ硬くなる。丁寧に向き合えば、ちゃんと応えてくれる。
「今日はフランスパン?」
千鶴がエプロンを結びながら声をかける。
「うん。」
「珍しいね。」
「昨日から、なんとなく焼きたい気分だったの。」
「その”なんとなく”は当たるからねぇ。」
紬は困ったような笑いを浮かべる。ククノチではレギュラーの10種類のパンのほかに、毎日紬のおすすめのパンを焼く。今日はフランスパンだ。
千鶴の言う、当たるにはいろんな意味が含まれる。売れるとか、必要とする人がいるという意味だ。
パンに触れると、そのパンを必要としている人の感情がイメージとして伝わってくる、この特技(と自負している)が、昔は怖かった。
理由もなく「今日はこれ」と思った日に限って、そのパンを必要としている人が現れる。
偶然だと言い聞かせても、何度も続けば不気味に思わずにはいられない。
だから今は、考えすぎないことにしている。今日もきっと、誰かがこのパンを待っている。それだけを信じていた。
焼き上がったフランスパンは、表面がぱりっと音を立てるほど香ばしく、中はしっとりと柔らかい。一本を半分に切り、北海道産の粒あんをたっぷり挟む。さらに、冷たい発酵バターを厚めに切って重ねた。最後にほんの少しだけ塩。
甘さと塩気が引き立て合う、ククノチでも人気の「あんバターフランス」だった。
「これは反則だねぇ。」
千鶴が笑う。
「朝から食べたくなる。」
「試食、いる?」
「もちろん。」
一口かじった千鶴は、目を閉じて頷いた。
「今日も売れる!」
午前十時。
制服姿の高校生が、一人で店へ入ってきた。細身で眼鏡をかけた、おとなしい雰囲気の男の子だった。紬は見覚えがある。
蓮が赴任してきてから、何度か一緒に歩いている姿を見たことがあった。
「いらっしゃいませ。」
少年はショーケースを見つめたまま、小さな声で言う。
「あんバター、一つください。」
「はい。」
袋へ入れようとした時だった。紬の指先に、ふっと温かな感覚が流れ込む。
――諦める。
その言葉だけが胸に浮かんだ。夢ではなく、自分自身を。紬は少年の顔を見る。表情は穏やかだった。けれど、その穏やかさがどこか寂しい。それ以上は何も聞かない。聞いてはいけない。
代わりに焼きたてを選び、袋へそっと入れた。
「今日は焼きたてですよ。」
それだけ伝える。少年は少し驚いたように顔を上げた。
「ありがとうございます。」
その笑顔は、少しだけ力が抜けていた。
昼休み。
高校のチャイムが町まで聞こえてくる頃、蓮が店へやって来た。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
自然と笑顔になる。お互い毎日顔を見ている。もう、当たり前になり始めていた。
「今日は珍しく早いですね。」
「午後の授業まで少し時間ができたので。」
蓮はショーケースを眺める。
「あんバターフランスですか。」
「おすすめですよ。」
「じゃあ、それを一つ。」
紬はパンを包みながら、先ほどの男子生徒のことを思い出した。
「先生。」
「はい?」
「さっき、先生の学校の生徒さんが来ました。」
「ああ、眼鏡をかけた子ですか?」
「知ってるんですか?」
「天文部の部長です。」
蓮の表情が少し曇る。
「進路で悩んでいるみたいで。」
紬は何も言わず、静かに耳を傾けた。
「天文学を勉強したいそうなんですが、ご家族は地元で就職してほしいらしくて。」
「そうだったんですね。」
「夢を追うことが、親不孝なんじゃないかって思い始めているようです。」
蓮は苦笑した。
「何とか力になってあげたいのですが。教師って、答えを教えられないことの方が多いですね。」
紬は丁寧に袋を差し出す。
「あんバターって、不思議なんです。」
「不思議?」
「甘いのに、最後はバターの塩気が残るでしょう。」
「そうですね。」
「だから祖父は、人生みたいだなって言ってました」
蓮は少し驚いたように紬を見つめた。
「しょっぱい味があるから」
紬は微笑む。
「甘さが引き立つんです。」
「……なるほど。」
教師として、生徒に伝えたいことが、パン屋の店先で一つ見つかった気がした。




