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星空のあんバターフランス(後編)


 蓮はあんバターフランスが入った紙袋を受け取り、レジの前で小さく礼をした。


「ありがとうございます。」


「こちらこそ。」


 紬は笑顔で送り出そうとしたが、蓮はすぐには店を出なかった。窓際の席へ腰を下ろし、紙袋からあんバターフランスを取り出す。


「今日はここで食べてもいいですか。」


「もちろんです。」


 ククノチには四人掛けの小さな木のテーブルが二つだけある。大きな窓からは坂道が見え、午後になると柔らかな陽射しが差し込む。


 蓮は一口かじると、思わず目を細めた。


「……おいしい。」


 表面は香ばしく、中はしっとり。粒あんの優しい甘さのあとに、発酵バターの塩気がゆっくりと広がる。


「甘いのに、最後は少しだけ引き締まるんですね。」


「だから、罪深い美味しさですよね。」


 紬はパンを並べながら答えた。


「甘いだけだと飽きてしまうけど、塩気が引き締めてくれるから。」


 蓮は頷いた。


「……同じかもしれませんね。」


「え?」


「楽しいことばかりじゃなくて、悩んだり迷ったりするから、人生は楽しいのかもしれない。」


 その言葉に、紬は静かに笑った。


「先生らしいですね。」


「そうですか?」


「うん。」


 自然に「うん」と返してしまい、紬は少し照れた。

 蓮も気づいたようだったが、何も言わず、ただ嬉しそうに微笑んだ。


 その日の放課後。


 蓮は職員室で採点を終えると、校舎の屋上へ向かった。天文部の部室は屋上の隣にある。

 ドアを開けると、一人の男子生徒が望遠鏡を磨いていた。


「佐伯。」


 生徒が振り返る。


「先生。」


「今日はククノチへ行った?」


「……はい。」


 少し驚いたような表情だった。


「おいしかったか?店主が、佐伯が元気なさそうだったと気にしていたぞ。」


「そう言えば、焼きたてですよ、って声かけてくれました。なんか特別な感じがして嬉しかったな。」


 佐伯は思い出しているのか、微笑んだ。その笑顔を見て、蓮は少し安心する。


「先生。」


「ん?」


「先生は、夢を諦めたことありますか。」


 静かな風が屋上を吹き抜けた。蓮は少し考えてから答える。


「あるよ。」


 佐伯は意外そうな顔をした。


「英語の教師になる前は、海外で歌手になりたいと思ってた。ピアノだって、本気だったからかなり上手かったんだぞ?」


「そうだったんですか。」


「でも家の事情もあって、一度は戻った。」


 蓮はフェンス越しに空を見上げる。


「人生終わったと思っていたけど、今こうして歌の次に好きな英語を教えている。」


 少し笑う。


「人生って、不思議だよ。」


「……。」


「夢って、一つじゃないのかもしれない。」


 佐伯は黙って聞いていた。


「だから急いで答えを出さなくていい。」


「先生。」


「うん。」


「もう少し考えてみます。」


 その表情は、朝ククノチで見た時よりも、少しだけ軽くなっていた。



 夕方。坂の下から鐘の音が聞こえてくる。カラン、とククノチの扉が鳴った。


「こんにちは。」


 蓮だった。


「忘れ物ですか?」


 紬が笑う。


「いえ。」


 蓮は照れくさそうに頭をかいた。


「伝えたいことがあって。」


「伝えたいこと?」


「今日、佐伯と話しました。」


 紬は黙って耳を傾ける。


「少しだけ前を向けたみたいです。」


「よかった。」


 本当に嬉しそうな顔だった。蓮はその表情を見つめながら言う。


「小鳥遊さん。」


「はい。」


「あなたのパンには、不思議な力がありますね。」


 紬の胸が小さく揺れる。その言葉だけは、昔から少し怖かった。気味悪がられたことが何度もある。

 表情がほんのわずかに曇ったのを、蓮は見逃さなかった。


「あ……。」


 慌てて言い直す。


「違います。」


 紬は顔を上げる。


「え?」


「パンが魔法みたいだと言いたいんじゃないんです。」


 蓮は少し考えながら言葉を選ぶ。


「小鳥遊さんは、その人が今ほしいものを自然に勧めてくれるでしょう。」


 紬の鼓動が速くなる。


「だから、みんな安心して帰っていく。」


「私は……。」


「きっと、パンだけじゃないんです。」


 蓮は穏やかに笑った。


「小鳥遊さん自身が、この町の人たちを安心させているんだと思います。」


 紬は何も言えなかった。そんなふうに言われたことは、一度もない。

 自分の”勘”を怖がるのではなく、誰かを安心させる優しさだと言ってくれた人は、初めてだった。


「ありがとうございます。」


 ようやく出た言葉は、それだけだった。



 店を出た蓮は、夕暮れの坂をゆっくり上っていく。最近はなぜだろう。ククノチへ行きたいと思う理由が、パンだけではなくなっている。もとろんパンがおいしいから、それもある。でも、それ以上に。

 あの店で「こんにちは」と迎えてくれる笑顔に会いたい。そんな気持ちが、胸のどこかで静かに芽を出し始めていた。


 一方、店先で蓮を見送る紬もまた、坂を上る背中を目で追っていた。やがて見えなくなるまで。そのことに自分で気づき、少しだけ恥ずかしくなって店の中へ戻る。


 パンの焼ける香りは、今日も変わらず優しかった。

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