待ち合わせとブリオッシュ(前編)
夕方五時。
常磐木町に、お寺の鐘がひとつ響いた。
坂の下の港からは潮の香りが風に乗って運ばれ、石畳の細い坂道をゆっくりと登ってくる。軒先には風鈴が揺れ、商店街の八百屋は店じまいの支度を始め、魚屋のおじさんは「また明日な」と笑いながら暖簾をしまっていた。
そんな町の坂の途中に、小さな木造のパン屋『ククノチ』はある。
店先の黒板には、白いチョークで今日のおすすめが書かれていた。
「今日のおすすめパン 夏みかんとはちみつのブリオッシュ 焼き上がりました。」
ほとんど毎日やってくる蓮におすすめを尋ねられるので、黒板に書いて出すことにしたのだ。
扉を開けると、カラン、と控えめなベルが鳴る。
「こんにちは。」
「いらっしゃいませ。」
小鳥遊紬は、生地についた粉を払って微笑んだその笑顔は、夕暮れの光によく似ていた。
レジ横には、三つに分かれた葉を揺らすトケイソウの鉢植え。
この店の中を、少しだけ華やかにしてくれる観葉植物だ。なぜか、この鉢植えだけは一年中青々とみずみずしい。
「紬ちゃん!」
元気な声とともに、小学二年生くらいの女の子が飛び込んできた。
「こんにちは、ゆあちゃん。」
「聞いて!」
ランドセルを勢いよく下ろしながら、ゆあは息を弾ませる。
「今日ね、逆上がりできた!」
「本当に?」
「うん! 三回も!」
「すごいじゃない。」
紬が手を叩くと、ゆあは照れくさそうに笑った。
「じゃあ今日は、お祝いだね。」
「でも、おこづかい三百円しかない。」
「それなら……。」
紬は焼きたてのミルクパンを手に取った。ころんと丸く、子どもの手にも収まる大きさ。
「今日は焼きたてだから、少しだけおまけ。」
袋へ入れるとき、小さな星形クッキーを一枚、そっと添える。ゆあは目を丸くし、キラキラと輝かせる。子どもの綺麗な瞳。可愛い。
「いいの?」
「逆上がり記念。」
「やったあ!」
弾むように帰っていく後ろ姿を見送りながら、紬は静かに息を吐いた。
――よかった。
パンに触れたとき、ほんの一瞬だけ伝わってきた。
「お母さんに褒めてもらいたい。」
そんな小さな願い。だから少しだけ、ゆあちゃんの嬉しい日が続くように。本人にも、自分にも気づかれないくらい、そっと願いを込めた。それだけだった。
「相変わらず、子どもと仲良くなるのがお上手ですね。」
聞き覚えのある声に振り返る。入口に立っていたのは、藤代蓮だった。長身なので、どこにいても目立つ。今日はワイシャツではなく、紺色のジャージ姿。
ハーフアップの髪も少し乱れていて、学校で見る教師というより、大学生のように見える。
「今日はその格好なんですね。」
「陸上部の助っ人です。あっ。汗臭くないかな。」
慌てて自分を嗅いでいるが、全く嫌な匂いはしなかった。むしろ柔軟剤の良い香りだ。紬は気にせず会話を続ける。
「先生が?」
「顧問が出張で。」
蓮は困ったように笑った。
「走るのは嫌いじゃないんですがね。」
「……女子生徒さんが喜びそうですね。」
その一言に、蓮は首をかしげた。
「そうですか?」
「……無自覚なんですね。」
モテる自信がないとは罪深い男前だ。堀が深く端正な顔は、ジャージでもモデルのようだった。
「何がです?」
怪訝な表情。真面目に不思議がる姿に、紬は思わず吹き出した。この手の話をしてもきっと無駄なタイプ。あまり自らの容姿に頓着がない。
「もういいです。」
「気になります。」
「秘密です。」
そんなやり取りに、店の奥で食パンを買っていた常連のおばあさんがくすりと笑う。
「先生ぇ。」
「はい?」
「紬ちゃんと仲良しねえ。」
「え?」
おばあさんは意味ありげに笑い、買い物袋を提げて帰っていく。店内に、少しだけむず痒い沈黙が落ちた。
「……何だったんでしょう。」
蓮が首をかしげる。藤代蓮は天然なのだろうか?真剣に困っている蓮に、紬は笑いをこらえきれず、小さく肩を震わせた。
「教えてください。」
「教えません。」
「おえんわあ。」
ここククノチにずいぶん慣れてしまったからなのか、蓮の言葉は不意に岡山の訛りが混じった。
「……あ。」
蓮自身が気づき、耳まで赤くなる。
「今の、岡山の…?」
「忘れてください。」
ちょっとおじいちゃんみたいで可愛い。そんな話し方だった。もしそれを聞ける人間が限られているとしたら。
「無理です。」
「そんなに変でした?」
「いいえ。」
紬は優しく首を振る。
「なんだか安心しました。」
「安心?」
「心の中に故郷がある人なんだなって。」
蓮は少し驚いたように紬を見る。それから照れ笑いを浮かべた。
「気を抜くと、すぐ出るんですよ。」
「もっと聞いてみたいです。」
「それは……恥ずかしいですね。」
二人が笑い合った、そのとき。店の電話が鳴った。紬は「少し失礼します」と受話器を取る。
その様子を待ちながら、蓮は店内をゆっくり眺めた。焼きたてのパンの香り。夕日に染まる木の床。
窓辺のトケイソウ。そして、忙しそうに電話をしながらも、相手を安心させるような柔らかな声で話す紬。
――この店へ来ると、不思議と肩の力が抜ける。
そう思う自分に、蓮は少しだけ笑ってしまった。その理由は、まだ自分でもわからなかった。




