待ち合わせとブリオッシュ(後編)
「お待たせしました。」
電話を終えた紬が受話器を置くと、蓮は窓際の席に腰を下ろしていた。
「学校からですか?」
「いえ、商店街の会長さんでした。」
紬はエプロンを整えながら笑う。
「来月のお祭りで、今年もパンを出してほしいって。」
「ああ、灯籠祭りですね。」
「先生、もう知ってるんですか?」
「職員室で教えてもらいました。『あれを見んと常磐木町の夏は終わらん』って。」
その言い回しに紬は目を細める。
「よほど常磐木町がお好きなんでしょうね。」
「ええ。『坂を登るのは大変だけど、そのぶん景色は日本一なんだ』とも言うとりました。」
また、自然と岡山の訛りが混じる。
「……また訛りました。」
「もう笑わないでください。」
「笑ってません。」
「笑ってます。」
「少しだけ。」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。冗談を言い合う中になりつつあった。
紬は人との距離を慎重に測る癖があったし、蓮も赴任したばかりで町に馴染めずにいたが、今は言葉が自然と続く。沈黙の時間も心地よかった。
「そうだ。」
紬は思い出したように厨房へ向かう。
「先生、試作品を食べてもらえませんか?」
「僕でいいんですか?」
「先生だからです。」
「理由になってませんよ。」
ほどなくして運ばれてきたのは、小ぶりな丸いパンだった。表面には細かい砂糖がきらきらと光り、ほんのりレモンの香りが立つ。
「レモンミルクパンです。」
「おいしそう。」
蓮は一口かじる。最初に広がるのは、やさしい甘さ。少し遅れて、爽やかな酸味。夏の始まりを思わせる味だった。
「……おいしい。」
その一言を聞くだけで、紬は嬉しくなる。
「本当ですか?」
「はい。何というか……。」
蓮は少し考え込む。
「子どもの頃、お寺の縁側で祖父と飲んだ蜂蜜レモンを思い出しました。」
「あ……。」
紬の胸が、小さく震えた。まただった。生地をこねているとき、一瞬だけ感じたもの。誰かを懐かしむ気持ち。会いたくても会えない人を思う静かな寂しさ。
今日は、レモンの香りを少しだけ強くした。香りは時に、記憶の扉を開いてくれたりするからだ。
「先生、おじいさまと仲が良かったんですね。」
「ええ。」
蓮は穏やかに頷いた。
「厳しい人でしたけど、一番いろんな話を聞いてくれました。」
「今も岡山に?」
「三年前に亡くなりました。」
紬は小さく息をのむ。紬が感じるのはあくまでイメージなので、そこまで想像が及んでいなかった。蓮を傷つけていないといいが。
「……ごめんなさい。」
「いいえ。」
蓮は首を振った。
「今日、思い出したのは久しぶりです。」
そう言って笑う横顔は、どこか晴れやかだった。紬は胸をなで下ろす。
――よかった。
思い出されたのが悲しい思い出ではなく、温かな記憶になった。それだけで十分だった。
店を出る頃には、空は藍色へと変わっていた。坂の途中から見下ろす港には、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。
「また来ます。」
「はい。」
「今度は仕事帰りじゃなくて、休みの日に。」
「その方がゆっくりできますね。」
「ええ。」
蓮は少しだけ照れたように笑う。
「だけど、この店にいると、不思議と時間がゆっくり流れる気がします。」
その言葉を残して、坂を上っていった。姿が見えなくなるまで見送り、紬は静かに店へ戻る。
レジ横では、トケイソウが夜風に揺れていた。三つに分かれた葉が、月明かりを受けてかすかに光る。
「今日もありがとう。」
そう呟くと、不思議なことに葉が風もないのに小さく揺れた気がした。紬は首をかしげたが、すぐに微笑んで電気を消した。
その夜。
紬は、またあの夢を見た。雨上がりのように湿った空気。空へ向かって何本も伸びる大きなヘゴ。
足元には深い緑の苔。葉の間からこぼれる木漏れ日が、水面のように揺れている。
この景色を、何度夢に見ただろう。知らない場所なのに、帰ってきたような懐かしさだけが胸いっぱいに広がる。
遠くで誰かが立っている。その姿は逆光で見えない。それでも恐くはない。
むしろ――。
「ようやく……。」
誰かがそう呟いた気がした。紬が一歩踏み出そうとした瞬間、鐘の音が響く。
ゴーン……。
夢はそこで途切れた。目を覚ますと、窓の外では夜風が木々を揺らしていた。胸の奥だけに、懐かしさが残っている。
「……また、この夢。」
小さく呟き、紬は胸に手を当てた。
同じ頃。蓮はアパートで、実家から送られてきた荷物を整理していた。寺を改修した際に見つかった祖父の遺品だという。古びた経本。墨で書かれた手紙。欠けた数珠。その下から、一束の絵葉書が現れる。
「これは……。」
何気なく一枚を抜き取った瞬間、蓮は動きを止めた。そこに描かれていたのは、鮮やかな緑の庭。
幾重にも重なる大きなシダ植物。湿った石畳。柔らかな光。
見たことのない場所。
それなのに、どうしてだろう。
胸が妙にざわつく。
裏返すと、祖父の達筆な文字が残されていた。
『人は、約束した場所を忘れて生まれてくる。』
「……約束した場所?」
意味は分からない。
けれど、その言葉だけが心に残った。
窓の外で、お寺の鐘が静かに十回鳴る。
同じ夜。
同じ町。
まだ出会うはずのない二つの記憶は、誰にも知られないまま、ゆっくりと重なり始めていた。




