灯籠祭りと灯籠パン(前編)
灯籠祭り当日の朝。まだ陽が昇りきらない常磐木町は、いつもより少しだけ落ち着かない空気に包まれていた。
商店街では青年団が提灯を吊るし、魚屋の店先には氷を打つ乾いた音が響く。坂の上のお寺へ続く石段には、昨夜飾られた灯籠が規則正しく並び、夕方を待ちながら静かに朝露をまとっていた。
ククノチの厨房にも、いつもどおり朝四時半に灯りがともる。
けれど今日の紬は、生地をこねながら何度も壁の時計を見ていた。
「……頑張っちゃうかも。」
思わず自分で笑ってしまう。今日は店を少し早く閉める。そして。蓮と一緒に灯籠祭りへ行く。たったそれだけの約束なのに、胸の奥が落ち着かなかった。
「……高校生じゃあるまいし。」
独り言をこぼしながら、生地へ向き直る。指先へ伝わる、小麦のやわらかさ。いつもなら自然と心が静かになる時間なのに、今日は気持ちまでふわふわと発酵しているようだった。
「紬ちゃん。」
厨房の窓から八百屋のおじさんが顔をのぞかせた。
「今日は忙しいぞ。」
「おはようございます。」
「祭り限定のパン、楽しみにしとる人がようけおる。」
「はい。ちゃんと焼けてます。」
今日だけの限定商品。毎年同じ、年に一度の「灯籠あんぱん」。丸いパンの真ん中へ、柚子風味の白あんを包み、表面には灯りを思わせる琥珀色の寒天をひとしずく。
夕暮れの灯籠をイメージして考えた、この日だけのパンだった。
「今年も売り切れじゃな。」
八百屋が嬉しそうに笑う。
「そうなるといいんですけど。」
「なるなる。」
そう言って手を振り、また市場の方へ戻っていった。町中が少し浮き立っている。その空気が、ククノチにも流れ込んでいた。
午前十時。
開店と同時に、露店はあっという間に人でいっぱいになった。
「灯籠あんぱん、あります?」
「まだありますよ。」
「六個ください!」
「うちは四つ!」
「あら、去年食べ損ねたのよ。」
常連のおばあさんも、子ども連れの家族も、観光で訪れたらしい若い夫婦も、みんな笑顔でパンを選んでいく。レジ横のトケイソウも、今日は一緒に来ている。どこか誇らしげに葉を揺らしているように見えた。昼を過ぎるころには、レジは戦場だった。
紬は汗をぬぐいながらも、一つひとつ丁寧に袋詰めしていった。忙しい。でも、心地よい。今日という日を、町のみんなが待っていてくれた。そのことが何より嬉しかった。
午後一時を少し回った頃だった。
「こんにちは。」
聞き慣れた声。紬が振り返ると、蓮が立っていた。今日は私服だった。白いリネンシャツに、濃紺のパンツ。
肩の力が抜けた装いなのに、不思議なくらいよく似合っている。
「先生。」
「こんにちは。」
「今日は学校は?」
「祭りなので午前中だけでした。」
そう言って店内を見回し、思わず笑う。
「すごいですね。」
ほとんどのパン棚が空になっていた。
「ここまでとは思いませんでした。」
「毎年こんな感じなんです。」
「町中が楽しみにしてるんですね。」
「はい。」
紬は少し照れながら頷いた。蓮はパン棚に一つだけ残っていた灯籠あんぱんへ目を留める。
「……これ。」
「あ。」
最後の一つだった。紬は一瞬迷ってから、そのパンをトレーへ乗せた。
「先生、どうぞ。」
「でも最後のひとつですよ。」
「最後だからです。」
蓮は少しだけ困ったように笑う。
「じゃあ、ありがたく。」
袋を受け取り、パンを大事そうに見つめる。
「祭りへ行く前に食べるのはもったいないですね。」
「冷めてもおいしいですよ。」
「じゃあ祭りのあとに。」
そう言って笑った蓮を見て、紬の胸も自然と温かくなる。
――夕方まで、あと少し。
約束の時間が、少しずつ近づいていた。




