灯籠祭りと灯籠パン(後編)
蓮が帰ったあとも、ククノチの露店は客でにぎわっていた。
「紬ちゃん、また来年も灯籠あんぱん頼むね。」
「はい。」
「今年もおいしかったよ。」
「ありがとうございます。」
そんな言葉を交わすたび、紬の胸は温かく満たされていく。ククノチのパンは、誰かのお腹を満たすだけではない。
家族で囲む食卓や、友人との笑い声、大切な人と過ごす時間の一部になっている。
そう思えるようになったのは、蓮と出会ってからだった。
以前の紬なら、そんな風に自信を持てなかった。自分の驕りなのではないか、と心のどこかで怯えていたからだ。
けれど今は違う。パンを焼いているも、そこに想いを込めているのも、自分。
仮に誰かの心を少しだけ後押しする特技があったとしても、それだけではなく、美味しいと思えるパンが作れるように努力だってしてきた。そう思えるようになっていた。
午後三時。
「閉店します。」
木製の札を「CLOSED」へ裏返す。店の中は急に静かになった。厨房では最後の片付けを終え、紬は大きく息をつく。
「終わったぁ……。」
今日はいつもの倍近くパンを焼いたし、いつもの倍近く接客した。心地よい疲れだった。エプロンを外し、二階の住居へ上がる。
時計を見る。午後四時十分。待ち合わせは五時。
「まだ時間ある。」
そう思ったのに、鏡の前へ立つと急に落ち着かなくなった。汗をかいている。シャワーを浴びなくては。
服を一枚取り出しては戻し、また別の一枚を手に取る。白いブラウス。水色のワンピース。淡いベージュのスカート。
「うーん……。」
普段なら迷わない。今日はなんだか決められない。
「パン屋なんだから、動きやすい服でいいじゃない。」
そう自分へ言い聞かせても、鏡の前から離れられなかった。最後に選んだのは、生成り色の半袖ブラウスと、白いロングスカート。
白は、少しだけ華やかにしてくれる気がした。いつもの自分らしさも忘れず、背伸びしすぎない格好。髪もいつもより少しだけ丁寧に整え、小さなゴールドの花のヘアピンをつける。
「……これでいいかな。」
鏡の中の自分は、少しだけ緊張した顔をしていた。
その頃。坂の上の教員住宅。蓮もまた、珍しく鏡の前で腕を組んでいた。
「……これじゃ授業じゃな。」
白いシャツを脱いでは掛け、薄いブルーのシャツを着てみる。
「いや、これも違う。」
結局、何枚も着替えた末に最初に選んだ白いリネンシャツへ戻ってきた。
「何しとるんじゃ、ワシは。」
思わず笑ってしまう。祖父が見たら何と言うだろう。
『大事なのは、心と心を通わせることじゃ。』
そんな声が聞こえてきそうで、苦笑した。
「心を通わせる……か。」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど胸が熱くなる。小さな体を目一杯動かして働くエプロン姿。三角巾の下でまとめられた長くふわふわの髪。キラキラの瞳。紬と話している時間は心地いい。笑ってくれると嬉しい。店へ向かう坂道さえ楽しみになっている。間違いなく、パンだけが目的ではなくなっている。
午後五時。約束の時間。ククノチの店先には、夕暮れの光がやさしく差し込んでいた。紬は店の扉に鍵を掛けると、小さく深呼吸をする。
「お待たせしました。」
声のした方を見る。坂道をゆっくり上ってくる蓮がいた。
「今準備が終わったところです。」
本当は十五分前から店の中で落ち着かずに時計を見ていた。二人の間に、夏の夕暮れの生暖かい空気が流れた。
「……行きましょうか。」
「はい。」
並んで歩き始める。二人の歩幅は少し違う。けれど蓮は何も言わず、紬に合わせてゆっくり歩いた。
それに気づいた紬も、何も言わなかった。坂の町には、お寺の鐘が静かに響き、祭りの始まりを告げているようだった。
二人の前には、無数の灯籠が夕暮れの中でやさしく揺れていた。




