無自覚なシナモンロール(前編)
朝早くの坂道のパン屋ーーククノチは、まだ町が目を覚ます前の静けさに包まれていた。厨房の窓を少しだけ開けると、潮の香りを含んだ風がふわりと入り込む。
紬は深く息を吸った。小麦粉の匂いと海の匂いが混ざる、この時間が好きだった。
大きなボウルの中で発酵した生地は、夜の間にゆっくりと膨らみ、まるで眠りから目覚めた子どものように柔らかい。掌でそっと押す。ふわりと戻る弾力に、小さく微笑んだ。
「今日は元気だね。」
生地に話しかける姿を見て、千鶴が笑う。
「またパンとおしゃべり?」
「聞いてる気がして。」
「紬ちゃんの声なら聞こえとるかもね。」
二人は顔を見合わせて笑った。今日焼くのはシナモンロール。バターをたっぷり塗った生地に、きび砂糖とシナモンを振りかける。
くるくると巻いて切り分けると、木の年輪のような渦模様が現れた。
「きれい。」
紬は一つひとつ向きを整えながら並べていく。同じように巻いても、同じ表情のパンは一つもない。
パンにも個性だ。
開店から一時間ほど経った頃、小さな女の子が店へ飛び込んできた。
「ママー! ぐるぐるパン!」
後ろから母親が慌てて続く。
「走っちゃだめでしょう。」
紬は思わず笑みをこぼした。
「おはようございます。」
「すみません、朝から騒がしくて。」
母親は申し訳なさそうに頭を下げる。肩には仕事用らしい大きなバッグ。腕時計を何度も気にしている。急いでいるのだろう。
女の子はショーケースの前にしゃがみ込み、シナモンロールをじっと見つめていた。
「これ、お花みたい。」
紬も隣にしゃがむ。
「本当だね。」
「パンなの?」
「うん。」
「どうしてぐるぐる?」
「焼く前にくるくる巻くから。」
「へぇ。」
女の子は目を輝かせた。
「パンって面白い。」
その無邪気な一言に、紬まで嬉しくなる。
「よかったら。」
焼きたてを小さく切って差し出す。
「試食です。」
母親が慌てる。
「そんな、悪いです。」
「今日はたくさん焼いたので。」
女の子は両手で受け取り、小さく「いただきます」と言って一口食べた。
次の瞬間、ぱっと笑顔になる。
「甘い!」
「おいしい?」
「うん!」
その笑顔を見た母親の表情が、少しだけ緩んだ。紬はその瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。この人はきっと、ずっと頑張っている。そう感じた。
「お母さんも、どうぞ。」
母親も一口食べる。シナモンの香りが鼻を抜け、思わず目を閉じた。
「……懐かしい。」
「懐かしいですか?」
「子どもの頃、父が休日になるとパン屋へ連れて行ってくれたんです。」
少し照れくさそうに笑う。
「最近、そんなこと思い出す余裕もありませんでした。」
女の子が母親の袖を引っ張る。
「ママ。」
「なぁに?」
「今日、公園行く?」
母親は少し考えてから微笑んだ。
「うん。」
「本当?」
「今日は仕事、お昼までだから。」
女の子は飛び上がって喜ぶ。
「やった!」
母親はシナモンロールを二つ買うと、紬へ頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
二人が手をつないで坂を下っていく。その後ろ姿を見送りながら、紬は静かに思った。パンが、ほんの少し、その人が立ち止まる時間を作ってくれた。
昼を過ぎても、蓮は来なかった。
昨日会えたから、今日見かけなくても、何も心配はないはずなのに。ふとした時に時計を見てしまう。ベルが鳴れば顔を上げる。
(……私、本当に変。)
紬は苦笑する。パンを並べ直しながら、自分に言い聞かせた。
先生は高校の先生。毎日忙しい。来られない日だってある。わかっているのに。来ないと、少しだけ寂しい。そんな自分を認めるのが、まだ照れくさかった。
その時だった。
カラン――。
ベルが鳴る。紬は反射的に顔を上げる。
店へ入ってきたのは蓮……ではなく、見慣れた郵便配達員だった。
「こんにちは。」
「あっ……こんにちは。」
思わず肩の力が抜ける。郵便配達員は苦笑しながら封筒を差し出した。
「なんだか待ち合わせの人じゃなくて申し訳ないですね。」
「えっ?」
「今、すごく期待した顔をしてましたよ。」
紬の頬が、一気に熱くなった。




