勇気のフォカッチャ(後編)
「優しいんだと思います。」
その言葉が、紬の胸の中に静かに残った。雨音だけが聞こえる店内。
いつもなら、こういう話題は避けてきた。自分でもうまく説明できない感覚。誰かの心の奥に触れてしまうような感覚。それを話せば、きっと変に思われる、そう思っていた。
だからいつも、「パン屋の勘です」と笑って終わらせる。でもなぜか蓮には、むしろその部分についてわかって欲しいような、初めて共有できるような感覚になっている。
紬は積極的に話そうとはしないが、話題を避けることもしないで蓮の話の続きを待っていた。
「僕、教師をしているとき、感じるんです。」
「?」
「言葉は受け取る人によって全然違う。」
蓮はフォカッチャの袋を見ながら言った。
「正しいことを言うだけでは、人は動かないことがあります。生徒なんて、本当に正直ですから」
「……。」
「でも、相手のことを考えて言った言葉は、ちゃんと届いている気がします。」
紬は黙って聞いていた。
「小鳥遊さんのおすすめしてくるパンって、言葉選びに似ているんだと思います。」
その言葉に、紬は少し目を伏せた。パン。焼き方。材料。温度。そういう技術の話なら、いくらでもできる。でも。
自分の、パンで少しでも元気になって欲しいという想いまで見られたような気がして、少し戸惑った。
「先生は……」
「はい?」
「人のこと、よく見ているんですね。」
蓮は少し驚いた顔をした。
「そうですか?」
「はい。」
「職業柄癖になっているかもしれません。」
そう言って笑う。その笑顔を見て、紬も笑った。
その日、蓮が選んだパンはフォカッチャだった。
「今日はこれですか?」
紬が尋ねる。
「はい。」
「気に入りました?」
「もちろんです。どのパンも美味しい。きっとまだ食べていないパンにも、美味しいと言えるでしょう。」
蓮は少し考えてから続けた。
「味もさながら、それだけがここのパンの魅力じゃないですからね。」
紬は首をかしげる。
「どういう意味ですか?」
「ここのパンを食べると、少し落ち着くんです。」
蓮は照れたように笑った。
「変ですよね。」
「……。」
紬は首を横に振った。
「変じゃないです。」
その言葉は自然に出た。
「私も、そういうパンを作りたいと思っています。」
蓮は少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、成功ですね。」
「え?」
「僕がそう感じたので。」
紬は何も言えなかった。ただ、胸の奥が温かくなった。
翌日の夕方。夫の転勤で引っ越してきたばかりの、あの女性がまたククノチを訪れた。
「こんにちは。」
「あっ。昨日の。」
気にかけていた人物。もちろん覚えている。
「この前はありがとうございました。」
「こちらこそ。」
女性は少し照れながら笑う。
「実は昨日、近所の方に声をかけたんです。」
「そうなんですね。」
「ゴミ出しの時間とか、分からないことを聞いてみました。」
紬は笑う。
「はい。」
「そしたら、その方がすごく優しく教えてくれて。」
女性は店内をあらためて眺める。
「この町、思っていたより温かいですね。」
その言葉を聞いて、紬は嬉しくなった。パンが何かを変えたわけではない。彼女自身が、一歩踏み出した。でも、そのきっかけの一つになれたなら。それだけで十分だった。
「今日は何にしますか?」
「おすすめありますか?」
紬は少し考える。そして。
「今日は……くるみパンはいかがですか?」
女性は笑顔だ。
「これを食べたら、また元気が出るのかな。」
紬は困ったように笑う。
「きっと、少しだけですよ。」
「じゃあ、それにします。」
その様子を、店の外から見ている人がいた。蓮だった。学校帰りに寄ったのだが、声をかけるタイミングを逃していた。店の中の紬を見る。
お客さんと話す時の柔らかな表情。相手が安心するまで待つ姿勢。自分が誰かの助けになっているとは思っていない自然さ。その姿が、なぜか強く印象に残った。
(この人は……。)
きっと自分が思っている以上に、この町の人を救っている。でも本人は、それに気づいていない。
「先生?」
見上げる大きな瞳。店を出た紬が声をかけた。
「え?」
蓮は振り返る。
「あ……。」
見つめてしまっていたことに気づかれていた。蓮は少し決まり悪そうに笑う。
「すみません。」
「どうして謝るんですか?」
「いや、なんとなく。」
紬は笑顔だ。
「雨、止みましたね。」
空を見る。雲の隙間から、夕日の色が少し見えていた。常磐木町の夕刻は美しい。
「本当ですね。」
店の外。二人で並んで坂道を見る。いつもなら、ここで別れる。蓮は学校へ。紬は店へ戻る。今日もそのはずだった。
蓮はほんの少し勇気を出してみることにした。この人をもっと知りたい。
「小鳥遊さん。」
「はい?」
「少し歩きませんか?」
紬は驚いた。パン屋の客から誘われたのははじめてではなかった。だけど、これまでは近づき過ぎるのを避けてきた。
「え?」
「あ、すみません。嫌なら……。」
「いえ。」
紬は慌てて首を振る。蓮の時間はゆっくりと流れる。焦りのようなものがない。紬は蓮と会うたび、もう少し一緒にいたいと思いはじめていた。
「大丈夫です。」
二人で坂道を歩く。ほんの数分。それだけ。店の中で話すのとは違った空気が流れている。
「この町、好きですか?」
蓮が聞いた。
「はい。」
紬は迷わず答える。
「小さい頃からよく知っているので。」
「長いんですね。」
「はい。」
「じゃあ、町のこと何でも知っていそうですね。」
「そんなことないですよ。」
紬は笑う。小さな町だが、パン屋の利用客ばかりではないし、過去に行った場所も少しずつ変化している。
「知らないこともいっぱいあります。」
蓮は海の方を見る。
「僕はまだ来たばかりなので。」
「でも、もう慣れているように見えます。」
蓮はすでに、常磐木高校の英語の教師として、周囲に受け入れられつつあった。
「そうですか?」
「はい。」
蓮は少し考える。
「……ククノチがあるからかもしれません。」
蓮は毎日ククノチを訪れることで、町の人たちと交流できていた。
不意に自分の店のおかげと言われ、紬の足が止まりそうになった。
「え?」
「この町に来て、最初に安心できる場所ができたので。」
夕方の風が吹く。紬は何も言えなかった。ただ、自分が素敵だと思っている人の安心できる場所になれている。嬉しかった。
その夜。紬はいつもの夢を見た。大きなシダ植物。深い緑。湿った空気。知らない庭。でも、なぜか懐かしい。
夢の中で、誰かがこちらを見ている。声は聞こえない。顔も見えない。目が覚める。紬は胸元に手を当てた。
「……まただ。」
子どもの頃から何度も見る夢。意味なんてないと思っていた。けれど最近、この夢を見る回数が増えていた。まるで何かを思い出そうとしているように。




