表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/15

勇気のフォカッチャ(前編)

 常磐木町の雨は、どこか優しかった。

 都会の雨のように急かすものではなく、古い瓦屋根を叩き、石畳を濡らし、町全体を静かに包み込む。

 坂道の途中にある小さなパン屋。ククノチの窓には、水滴がいくつも流れていた。

 紬は焼き上がったフォカッチャをオーブンから取り出す。ふわりと広がる香り。オリーブオイル。焼けた小麦。ローズマリーの爽やかな匂い。


「雨の日は、フォカッチャがよく出るねぇ。」


 千鶴が言う。


「そうなの。雨の日って、みんな少し疲れてるから力をつけてあげたいの。」


 紬は少し考えた。今朝は疲れている、と伝えてくる人が多かった。

 紬は昔からそうだった。誰かの心の中に、気づいてしまう。顔では笑っていても、本当は寂しい人。強がっているけれど、本当は助けを求めている人。それが、なぜか分かってしまう。

 その特技は、あまり詳しく話すと怖がられることもあった。だから紬は、人と距離を取ることが多かった。分かってしまうことは、相手の秘密に触れることだから。

 でもパンは違う。パンなら、言葉にしなくてもそっと渡せる。


「今日も、おいしく焼けてね。」


 紬は生地に触れながら、小さくつぶやいた。


 昼前。雨脚が強くなった頃、店の扉が開いた。


 カラン。


「いらっしゃいませ。」


 入ってきたのは、一人の女性だった。三十代くらい。濡れた髪を整えながら、申し訳なさそうに笑う。


「すみません。雨宿りしてもいいですか?」


「もちろんです。」


 紬はすぐにタオルを渡した。


「ありがとうございます。」


 女性は店内を見渡す。木の棚。焼きたてのパン。

レジ横のトケイソウ。


「なんだか……落ち着くお店ですね。」


「ありがとうございます。」


 女性は窓際の席に座った。彼女は一ヶ月前にこの町へ引っ越してきたばかりだった。夫の転勤。知らない土地。知らない人。新しい生活を楽しみにしていたはずだった。でも。


「……だけど思ったより寂しいですね。」


 無意識にこぼれた言葉。紬は顔を上げた。


「お店、少し雰囲気が寂しいですか?」


「あ、すみません。お店ではなくて、この町。」


 女性は慌てて笑う。


「変ですよね。引っ越してきたばかりなのに。」


「変じゃないです。」


 紬は自然に答えていた。


「環境が変わると、疲れますから。」


 女性は少し驚いた顔をした。


「……そうなんです。」


 その一言。紬はこの人は、町が嫌なのではない。と感じた。帰れる場所がまだ見つかっていないだけ。紬はパン棚からフォカッチャを手に取った。


「これ、食べてみませんか?」


「フォカッチャ?」


「はい。」


「おすすめなんですか?」


 紬は少し笑う。


「今日は、貴女にはこれがいい気がします。ちょっとの塩気が元気をくれますから」


 女性は不思議そうに笑った。


「面白いですね。」


「え?」


「パン屋さんなのに、占いみたい。」


 紬は一瞬固まる。でも、女性は冗談で言っただけだった。


「すみません、変なこと言いました。」


「いえ。」


 紬は笑った。


「よく言われます。勘の鋭いパン屋だって。」


 パン屋の勘。そう言うことにしている。

 女性は店内でフォカッチャを食べた。表面は香ばしく。中は柔らかくもちっと。温かい味だった。


「……おいしい。」


 その瞬間。なぜか涙が出そうになった。悲しいからではない。少し安心したから。


「私。」


 女性は小さく笑う。


「もう少し頑張ってみようと思いました。」


 紬は何も言わず、うなずいた。人は時々、誰かに言ってもらわないと弱っていることに気づけない。


「大丈夫ですよ。」


 紬が言う。


「きっと、この町にも少しずつ慣れます。」


 美咲は笑った。


「また来てもいいですか?」


「もちろんです。」


 夕方。雨が弱まった頃。店の入り口のベルが鳴った。


「こんにちは。」


 最近では聞き慣れた声。紬の顔が自然に明るくなる。


「先生。」


 蓮だった。


「雨、大丈夫でしたか?」


「はい。」


 蓮は店内を見る。


「今日は……いつもより優しい匂いがします。」


「フォカッチャを焼いたので。」


「じゃあ、それをお願いします。」


「はい。」


 紬はパンを包む。その手元を蓮は何気なく見ていた。丁寧な手つき。パンだけではなく、買う人のことまで考えているような動き。


「小鳥遊さん。」


「はい?」


「さっきの女性。」


 紬の手が止まる。


「元気になりましたね。」


「……分かりますか?」


「はい。」


 蓮は笑った。


「来た時より、帰る時の方が笑っていたので。」


 紬は少し驚いた。この人は、ちゃんと気づいている。私が思っていたことと同じことを。


「どうして、あのパンを選んだんですか?」


 意図を感じる質問。紬は迷った。でも。この人には少しだけ話してもいい気がした。


「……なんとなくです。」


「なんとなく?」


「はい。」


 紬は笑う。


「パン屋の勘です。」


 蓮は眼鏡を触りながら、少し考え、そして。


「すごい特技ですね。」


 そう言った。紬は目を瞬く。


「普通なら、不気味に思うところですよ。」


「そうですか?」


「はい。」


 蓮は優しく笑う。


「でも、小鳥遊さんの場合、不気味というより……優しいんだと思います。」


 胸の奥が、少し震えた。そんなふうに言われたのは初めてだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ