勇気のフォカッチャ(前編)
常磐木町の雨は、どこか優しかった。
都会の雨のように急かすものではなく、古い瓦屋根を叩き、石畳を濡らし、町全体を静かに包み込む。
坂道の途中にある小さなパン屋。ククノチの窓には、水滴がいくつも流れていた。
紬は焼き上がったフォカッチャをオーブンから取り出す。ふわりと広がる香り。オリーブオイル。焼けた小麦。ローズマリーの爽やかな匂い。
「雨の日は、フォカッチャがよく出るねぇ。」
千鶴が言う。
「そうなの。雨の日って、みんな少し疲れてるから力をつけてあげたいの。」
紬は少し考えた。今朝は疲れている、と伝えてくる人が多かった。
紬は昔からそうだった。誰かの心の中に、気づいてしまう。顔では笑っていても、本当は寂しい人。強がっているけれど、本当は助けを求めている人。それが、なぜか分かってしまう。
その特技は、あまり詳しく話すと怖がられることもあった。だから紬は、人と距離を取ることが多かった。分かってしまうことは、相手の秘密に触れることだから。
でもパンは違う。パンなら、言葉にしなくてもそっと渡せる。
「今日も、おいしく焼けてね。」
紬は生地に触れながら、小さくつぶやいた。
昼前。雨脚が強くなった頃、店の扉が開いた。
カラン。
「いらっしゃいませ。」
入ってきたのは、一人の女性だった。三十代くらい。濡れた髪を整えながら、申し訳なさそうに笑う。
「すみません。雨宿りしてもいいですか?」
「もちろんです。」
紬はすぐにタオルを渡した。
「ありがとうございます。」
女性は店内を見渡す。木の棚。焼きたてのパン。
レジ横のトケイソウ。
「なんだか……落ち着くお店ですね。」
「ありがとうございます。」
女性は窓際の席に座った。彼女は一ヶ月前にこの町へ引っ越してきたばかりだった。夫の転勤。知らない土地。知らない人。新しい生活を楽しみにしていたはずだった。でも。
「……だけど思ったより寂しいですね。」
無意識にこぼれた言葉。紬は顔を上げた。
「お店、少し雰囲気が寂しいですか?」
「あ、すみません。お店ではなくて、この町。」
女性は慌てて笑う。
「変ですよね。引っ越してきたばかりなのに。」
「変じゃないです。」
紬は自然に答えていた。
「環境が変わると、疲れますから。」
女性は少し驚いた顔をした。
「……そうなんです。」
その一言。紬はこの人は、町が嫌なのではない。と感じた。帰れる場所がまだ見つかっていないだけ。紬はパン棚からフォカッチャを手に取った。
「これ、食べてみませんか?」
「フォカッチャ?」
「はい。」
「おすすめなんですか?」
紬は少し笑う。
「今日は、貴女にはこれがいい気がします。ちょっとの塩気が元気をくれますから」
女性は不思議そうに笑った。
「面白いですね。」
「え?」
「パン屋さんなのに、占いみたい。」
紬は一瞬固まる。でも、女性は冗談で言っただけだった。
「すみません、変なこと言いました。」
「いえ。」
紬は笑った。
「よく言われます。勘の鋭いパン屋だって。」
パン屋の勘。そう言うことにしている。
女性は店内でフォカッチャを食べた。表面は香ばしく。中は柔らかくもちっと。温かい味だった。
「……おいしい。」
その瞬間。なぜか涙が出そうになった。悲しいからではない。少し安心したから。
「私。」
女性は小さく笑う。
「もう少し頑張ってみようと思いました。」
紬は何も言わず、うなずいた。人は時々、誰かに言ってもらわないと弱っていることに気づけない。
「大丈夫ですよ。」
紬が言う。
「きっと、この町にも少しずつ慣れます。」
美咲は笑った。
「また来てもいいですか?」
「もちろんです。」
夕方。雨が弱まった頃。店の入り口のベルが鳴った。
「こんにちは。」
最近では聞き慣れた声。紬の顔が自然に明るくなる。
「先生。」
蓮だった。
「雨、大丈夫でしたか?」
「はい。」
蓮は店内を見る。
「今日は……いつもより優しい匂いがします。」
「フォカッチャを焼いたので。」
「じゃあ、それをお願いします。」
「はい。」
紬はパンを包む。その手元を蓮は何気なく見ていた。丁寧な手つき。パンだけではなく、買う人のことまで考えているような動き。
「小鳥遊さん。」
「はい?」
「さっきの女性。」
紬の手が止まる。
「元気になりましたね。」
「……分かりますか?」
「はい。」
蓮は笑った。
「来た時より、帰る時の方が笑っていたので。」
紬は少し驚いた。この人は、ちゃんと気づいている。私が思っていたことと同じことを。
「どうして、あのパンを選んだんですか?」
意図を感じる質問。紬は迷った。でも。この人には少しだけ話してもいい気がした。
「……なんとなくです。」
「なんとなく?」
「はい。」
紬は笑う。
「パン屋の勘です。」
蓮は眼鏡を触りながら、少し考え、そして。
「すごい特技ですね。」
そう言った。紬は目を瞬く。
「普通なら、不気味に思うところですよ。」
「そうですか?」
「はい。」
蓮は優しく笑う。
「でも、小鳥遊さんの場合、不気味というより……優しいんだと思います。」
胸の奥が、少し震えた。そんなふうに言われたのは初めてだった。




