後押しクリームパン
その日の朝、ククノチの厨房には、いつもより甘い香りが漂っていた。
紬は鍋の中のカスタードクリームを、ゆっくりとかき混ぜている。
卵と牛乳と砂糖。
シンプルな材料なのに、火加減や混ぜ方で味が変わる。
「焦らないこと。」
祖父から教えられた言葉を、今でも覚えている。
「パンも、人も同じ。」
急いで答えを出そうとすると、大切なものを見落とす。
紬は出来上がったクリームを冷ましながら、小さく息を吐いた。
今日はなぜか、誰かに食べてもらいたい気分だった。誰か。長めの髪。眼鏡。その顔が浮かんでしまい、紬は慌てて首を振る。
「……先生は、お客さんだから。」
そう言い聞かせるようにつぶやいた。その時。レジ横のトケイソウの葉が、朝の風に揺れた。まるで返事をするように。
昼過ぎ。ククノチの扉が開いた。
「いらっしゃいませ。」
紬は顔を上げる。入ってきたのは、二十代半ばくらいの男性だった。服装はきちんとしているが、表情はくたびれていた。
「……まだパン、ありますか。」
「はい。ありますよ。」
紬は棚にパンを並べながら答える。その瞬間。指先に、ほんの少し違和感が走った。いつものことだった。もういつからそれを感じるのかはわからない。子どもの頃からだったように思う。
生地に触れると、時々感じる。その人が今、何を抱えているのか。
悲しい。
寂しい。
迷っている。
言葉にならないものが、温度のように伝わってくる。偶然かと思ったが、それが割と当たっていることに気づくのに時間かはかからなかった。昔は、それが怖かった。
人の気持ちが分かってしまう自分は、おかしいのかもしれない。だから決して口にはしない。
ただ、わかってしまうので、何かせずにはいられない。だから、生地に少しだけ願いを込めるのだ。食べた人の気持ちが少しでも晴れるように。紬はこれを自分の特技として捉えることにしていた。
「……今日は、クリームパンがおすすめです。」
男性は少し驚いたように顔を上げた。
「どうしてですか?僕の好物なんです」
紬は微笑む。
「なんとなくです。」
それ以上は言わない。言って戸惑わせてはいけないと思っている。
「じゃあ、これをください。」
男性は東京の会社に勤めていた。けれど半年ほど前、仕事を辞めて故郷の常磐木町へ戻ってきた。
都会での生活は、思っていたよりずっと厳しかった。夢を持って出ていったはずなのに。気づけば、毎日をこなすだけになっていた。
今は実家の手伝いをしながら、これからのことを考えている。
町へ戻ってきたことが正解なのか。もう一度、都会へ出るべきなのか。答えが出ないまま、日々だけが過ぎていた。
男性は帰り道、坂道のベンチに座りクリームパンを開ける。一口食べる。甘い。でも、優しい。
子どもの頃、母が買ってくれたパンを思い出した。男性はスマホを見る。母からのメッセージ。
『無理しなくていいからね』
いつもなら、その優しさが苦しかった。でも今日は違った。
「……帰って話してみるか。」
小さくつぶやいた。答えはまだ出ない。でも、逃げるように悩むのはやめようと思えた。
翌日。
男性は再びククノチを訪れた。
「こんにちは。」
「あ。」
紬はすぐに気づいた。
「昨日のクリームパンの方ですね。」
男性は笑った。
「覚えてくれてたんですね。」
「はい。」
紬は少し照れる。
「パン屋なので。」
その答えに、男性も笑った。
「昨日、ありがとうございました。」
「え?」
「昨日、ここのパンを食べたあと悩んでいたことがスッキリして。」
紬は静かに聞く。紬がわかるのはイメージ程度で細かい事情は知らない。
「まだ迷っています。でも……少し楽になりました。」
「それはよかったです。」
「パンのおかげです。」
紬は首を横に振った。
「違います。」
「え?」
「ご自身で向き合ったからです。」
男性は少し目を丸くした。そして、ゆっくり笑った。
「この店、不思議ですね。」
「そうですか?」
「なんか、来ると少し元気になります。」
紬は困ったように笑った。
「パンの力かもしれませんね。」
でも本当はパンの力ではない。人は、自分で前へ進む力を持っている。自分はただ、そのきっかけを少し渡しているだけ。
紬はそんな風に思いながら、店を後にする男性の背中を見送っていた。
「やっぱり、ここのパンは特別なんですね。」
と、声がして、紬が振り返る。最早常連客となった蓮が店の入り口に立っていた。蓮は紬と男性との昨日からの一連のやりとりを見ていたのだった。
「先生。いらっしゃいませ。」
「今の方。」
蓮は眼鏡の位置を手で直しながら少し笑う。
「表情が明るかったです。」
「そうですね。」
「パン屋さんは、いつもそうやって人を元気にしているんですか?」
紬は一瞬黙った。昔から、そういう風に思われるのが怖かった。自分でも説明できない感覚。誰かの心の奥に触れてしまうような感覚。
「そんなことないです。」
そっと否定しながらいつものように笑う。
「私はパンを焼いているだけです。」
だが蓮は紬の予想とは裏腹に首を振った。確信を持った真剣な眼差しだ。
「それだけじゃないと思います。」
「……。」
「パンを作る人が、どんな気持ちで作るかって、きっと味に出ると思うので。」
その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。ホッとするような、そんな感覚だ。この特技についてそんな風に言う人はこれまでいなかった。
「先生は……。」
「はい?」
「変わったことを言いますね。」
紬は嬉しい気持ちと同時に、まだ打ち明けることができなくて、咄嗟に誤魔化した。蓮は笑った。その笑顔を見て思う。この人に自分の特技ことをいつか話せるかも知れない。
「よく言われます。」
「それと先生?私、小鳥遊です。小鳥遊紬。」
「ーー小鳥遊さん。」
「はい、小鳥遊です。藤代先生。」
紬がまたイタズラっぽく笑う。
「ご存知だったんですね。」
「小さな町ですから。お客様が教えてくれるんです。」
二人の間に、柔らかな沈黙が流れていた。




