約束のバターロール(後編)
学校へ向かう坂道を歩きながら、蓮は紙袋を見下ろした。焼きたての温もりが、まだほんのりと残っている。
──明日も来てください。
紬の声が耳に残っていた。
たった一言。
それなのに、その言葉が思いのほか嬉しくて、気づけば口元がゆるんでいる。
「先生、おはようございます!」
元気な声に顔を上げると、自転車を押した女子生徒が二人、坂を上ってきた。
「おはよう。」
「先生、今日は機嫌いいですね。」
「そう?」
「そう!」「そうだよ!」
二人は顔を見合わせて笑いながら校門へ走っていった。蓮は首をかしげる。
(そんなに分かるものかな。)
自覚はなかった。
昼休み。
職員室には、コーヒーの香りと先生たちの談笑が広がっていた。蓮は紙袋を開き、バターロールを机に並べる。
「いい匂い。」
隣の数学教師・神崎が椅子を引いて近づいてきた。
「またククノチ?」
「はい。お一ついかがです?」
「ククノチのパンは美味しいからなぁ。」
神崎は笑いながら一つ手に取る。
「いただきます。」
一口かじった途端、目を丸くした。
「……これ、うまい。」
「ですよね。」
「バターがくどくない。」
「朝焼きたてだったので。」
その会話を聞いていた養護教諭の三上先生も興味津々で近づいてくる。
「それククノチのバターロール?私もいい?」
「もちろんです。」
「ありがとう。」
三上先生も一口食べると、ふっと頬を緩めた。
「なんだろう……。」
「?」
「すごく普通のパンなのに、また食べたくなる味。」
神崎も大きくうなずく。
「それ。」
「派手じゃないんだけどね。」
ククノチは常磐木町内で愛されているのだな。蓮は妙に納得していた。
放課後。部活動へ向かう生徒たちを見送りながら、蓮はふと時計を見る。
午後四時二十分。
(今日は少しだけ早く帰れるな。)
校門を出て、自然と坂を下る。一度自宅のアパートに戻り、財布を手に取りククノチへ向かう。まだ閉店まで一時間以上ある。暖簾が風に揺れていた。
「こんにちは。」
ベルが鳴る。紬は顔を上げると、ほっとしたように笑った。
「こんにちは。」
「今日は早いですね。」
「明日の授業の準備が終わったので。」
「そうなんですね。」
昨日より自然に言葉が続く。
「先生、約束守ってくれました。」
紬が笑う。
「約束?」
「今朝、『また来てください』って。」
「ああ。」
蓮も笑った。
「守れました。」
「ありがとうございます。」
その「ありがとうございます」が、接客の言葉ではなく聞こえて、蓮は少し照れくさくなる。
「今の時間は何がおすすめですか?」
「今は……。」
紬は少し考えてから、小さな丸パンを手に取った。
「じゃがいもパンです。」
「じゃがいも?」
「生地にマッシュポテトを練り込んでるんです。」
「珍しいですね。」
「もちもちしますよ。」
「じゃあ、それを。」
袋へ入れながら、紬がふと思い出したように尋ねる。
「先生、学校には慣れましたか?」
「まだ二日目ですから。」
「そうですよね。」
「でも。」
蓮は少し笑った。
「思っていたより居心地がいいです。」
「よかった。」
「先生方も優しいし、生徒も明るいし。」
「町の人も優しいですよ。」
「そうですね。」
少し間が空く。
「パン屋さんも。」
紬は一瞬きょとんとして、それから照れたように笑った。
「ありがとうございます。」
店の外へ出ると、夕方の風が少しだけ涼しくなっていた。
蓮は数歩歩いて立ち止まる。
振り返ると、紬はガラス越しにパンを並べ直している。目線に気づいた紬と目が合い、小さく会釈する。蓮も笑って手を軽く上げる。
そのやり取りを、店の向かいで八百屋を営む夫婦が見ていた。
「新しい先生かね。」
「そうじゃない?」
「紬ちゃん、楽しそうだったね。」
「うん。」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑う。
「若いっていいねぇ。」
その声は、二人の耳には届かなかった。
その夜。
ククノチの厨房では、翌日の仕込みが始まっていた。生地をこねながら、紬は思わず独り言をこぼす。
「先生……じゃがいもパン、気に入ってくれるといいな。」
自分で言って、自分で笑う。
「感想を聞きたいな。」
そんなふうに思ったのは、初めてだった。
一方、職員住宅では、蓮がじゃがいもパンを半分に割っていた。
一口食べる。もちもちとした食感に、思わず笑みがこぼれる。
「……これ、好きだな。」
明日、そのことを伝えよう。そんな小さな楽しみが、いつの間にか一日の終わりを彩っていた。
ロールパンの話なのにフォカッチャが出て来てしまった。




