約束のバターロール(前編)
翌朝。
まだ町が目を覚ます少し前、ククノチの厨房では発酵を終えた生地が静かに並んでいた。
紬は手のひらで生地を包み込むように丸め、一つひとつ丁寧に天板へ並べていく。
バターロール。形はどれも少しずつ違う。けれど、それでいい。
「同じ顔のパンなんて、つまらないもんね。」
独り言のようにつぶやくと、祖母の千鶴が奥から笑った。
「パンは人に似るけぇね。」
「またそんなこと言って。」
「ほんとじゃよ。」
紬は笑いながらオーブンへ天板を入れた。今日は、なんとなく朝から落ち着かない。理由は分かっている。
(……先生、来るかな。)
考えた途端、首を横に振る。
「昨日来たばかりじゃない。」
昨日だってたまたま高校へ行く途中に寄っただけ。そう言い聞かせながらも、開店時間が近づくたびに店の外へ目が向いてしまう。
七時十五分。
ベルが鳴る。反射的に顔を上げる。期待とは裏腹に入ってきたのは郵便局員の青年だった。
「紬さん、おはようございます。」
「おはようございます。」
青年の爽やかな笑顔。少しだけ残念に思う自分に気づき、紬は苦笑した。
(私、何を期待してるんだろう。)
彼が続けて来てくれるはずないのに。パン屋の常連は色々いるが、毎日来る人はほとんどいない。
一方、蓮は職員住宅の玄関でネクタイを締めていた。鏡を見る。
「よし。」
昨日より少しだけ表情が柔らかい。初日を終えた安心感もあった。机の上には昨日買ったクリームパンの袋。袋を捨てようとして、店の名前を見つめる。
ククノチ。
短い名前なのに、不思議と覚えやすい。時計を見る。出発には、まだ少し早い。学校へ辿り着くには十分時間がある。
「……。」
少しだけ考えて、家を出た。坂を歩く足取りは昨日より軽い。無意識にククノチの前まで来ていた。
店の前まで来ると、焼きたての香りが迎えてくれた。昨日と同じ。いや、今日はバターの香りが少し強い。自然と口元が緩む。
扉を開ける。
カラン。
「いらっしゃいませ。」
紬が顔を上げる。一瞬だけ、ぱっと表情が明るくなったように見えた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
昨日より自然に言葉が交わる。
「先生、今日は早いですね。」
「昨日より余裕を持って出ました。」
「もう坂にも慣れないとですもんね?」
「……いや。」
蓮は苦笑した。
「やっぱり長いですね。」
紬がくすっと笑う。
「みなさん最初はそう言います。」
「毎日登ってる高校生はすごいですね。」
「若いですから。」
また笑う。まだ短い会話なのに、昨日より沈黙が心地いい。
「今日は何がおすすめですか?」
「今日はですね……。」
紬は焼きたてのバターロールを持ち上げた。
「焼きたてです。」
「じゃあ、それを。」
「何個にします?」
蓮は少し考える。昨日なら迷わず一つだった。でも今日は違う。
「三つください。」
「三つ?」
「職員室で食べようかなと。」
紬は少しうれしそうに笑う。
「みなさんにも食べてもらえるんですね。」
「はい。」
「うれしいです。」
その一言に、蓮は胸が少しだけ温かくなる。彼女の接客が自分が店に来たことを歓迎されていると感じた。それだけで、また来てよかったと思えた。
会計を済ませようとした、その時だった。
「あ……。」
蓮の手が止まる。ジャケットの内ポケット。鞄。
ズボンのポケット。もう一度ジャケット。探る。……財布がない。
「どうしました?」
「すみません。」
蓮は困ったように笑った。
「財布……部屋に忘れてきたみたいです。」
一瞬、店内が静かになる。
「あの、本当にすみません。」
「ふふ。」
紬は思わず笑ってしまった。彼は案外うっかりした人なのかも知れない。
「笑い事じゃないですよね。」
「ごめんなさい。」
紬は紙袋をそのまま差し出した。
「明日でいいですよ。」
「え?」
「お代。」
「いや、それは。」
「じゃあ。」
紬は少し考え、小さく笑った。
「一つだけ条件があります。」
蓮は首をかしげる。
「条件?」
「はい。」
紬はいたずらっぽく笑った。
「明日も来てください。」
自然と紬の口から出ていた。蓮は一瞬だけ目を丸くした。それから、ゆっくり笑う。
「……その約束なら、守れます。」
おそらく、明日の朝も来てしまうから。紬も笑う。
「じゃあ、約束です。」
紙袋を受け取る蓮の胸に、不思議な温かさが広がる。今日は学校へ向かう坂道が昨日より少しだけ短く感じられた。
店の中では紬もまた、閉まった扉を見つめながら、自分でも理由の分からない笑顔を浮かべていた。
(……明日も来てくれる。)
そう思っただけで、焼きたてのパンの香りがいつもより少し甘く感じられた。




