朝焼けのミルクパン(後編)
1話後編です
「それじゃあ……このクリームパンも一つお願いします。」
「はい。」
紬はトングでそっとクリームパンをつかみ、紙袋へ入れた。
クリームパンは少しだけ楕円形で、真ん中に焼き印が押されている。
──K。
ククノチの頭文字だった。
「かわいいですね。」
蓮が焼き印を見つめる。
「祖父が作った焼き印なんです。」
「おじいさまが?」
「はい。パン屋を始めた人なので。」
「そうなんですね。」
紬は少しだけ目を細めた。
「もう亡くなっていますけど。」
「……僕も祖父に育てられたんです。」
思わず口をついて出た言葉だった。初対面の人に話すようなことではない。
そう思ったのに、この店の雰囲気がそうさせるのか、蓮はごく自然に語り始める。
「そうだったんですね。」
「岡山で寺をやっていて。」
「お寺?」
「はい。」
「じゃあ、ご住職さんになる予定だったんですか?」
「周りはそう思ってたみたいです。」
蓮は照れたように笑う。
「でも英語の先生になってしまいました。」
「『なってしまった』なんですか?」
紬が少しイタズラっぽい表情で訊ねる。
「あ、違いますね。なりたかったんです。」
二人とも笑った。
「よかった。」
紬は心からそう思った。
「好きなことを仕事にできるって、素敵です。」
「あなたも、そうじゃないですか。」
「え?」
「パン。」
その一言に、紬は少し驚いた。
「好きなんでしょう?」
そんなふうに聞かれたのは久しぶりだった。「忙しいでしょう」「朝早くて大変ですね」と言われることは多い。
でも、「好きなんでしょう」と言われたことは、あまりなかった。
「……はい。」
小さく笑う。
「好きです。」
それだけ答えると、蓮もうれしそうに笑った。
「よかった。」
その「よかった」は、さっき自分が言った言葉と同じ響きだった。どちらからともなく笑い合う。
まだ名前しか知らない。それでも、さっきより少しだけ親しくなった気がした。
蓮が店を出る頃には、坂道は夕焼け色に染まっていた。
「今日はありがとうございました。」
「こちらこそ。」
蓮は少し歩いてから振り返る。紬は暖簾を片付けながら、こちらを見ていた。目が合う。紬は軽く手を振る。
「お気をつけて。」
「はい。」
蓮も会釈を返す。それだけだった。それだけなのに、胸の奥が少し温かい。
(……不思議な町だな。)
来たばかりなのに、「帰る場所」が一つ増えたような気がした。
「紬ちゃん。」
隣の魚屋のおばちゃんが店じまいをしながら声をかける。
「新しい先生?」
「え?」
「さっきの男前。」
紬は一瞬言葉に詰まる。確かに、彼の見た目は長身で堀が深く整った顔立ちで、所謂男前だった。
「……高校の先生みたいです。」
「へぇ。」
魚屋のおばちゃんは意味ありげに笑う。
「感じのええ人じゃったね。」
「そうですね。」
「紬ちゃんも、よう笑っとった。」
「えっ?」
「自分じゃ気付いてない?」
紬は慌てて首を振る。
「そんなことないですよ。」
「そうかねぇ。」
おばちゃんは笑いながら帰っていった。一人になった店先で、紬はガラスに映る自分を見る。
……笑っていたのかな。
普通に接客しただけ。それなのに、なんだか少し照れくさかった。
その夜。職員住宅。蓮は夕食を終え、ソファに腰を下ろしていた。テーブルには、ククノチのクリームパン。食後なのに、つい手が伸びる。
「甘いもの好きですか?」
紬の声を思い出す。半分に割ると、とろりとカスタードが顔を出した。
「……うまい。」
甘すぎない。どこか優しい味だった。窓を開ける。夜風が部屋へ流れ込む。
遠くから、お寺の鐘が聞こえた。
ゴーン……
一つ。
二つ。
静かな音が町へ広がっていく。その音を聞きながら、蓮はふと思った。
(明日は何を買おう。)
パンのことを考えている。……そう思っていた。
けれど本当は。パンを選ぶときに笑う店主の顔を、もう一度見たいと思っていた。
そのことには、まだ気づいていなかった。
一方、紬も店の二階にある自室で髪を乾かしていた。窓を開けると、同じ鐘の音が聞こえる。昔から好きな音だった。町のみんなが、一日の終わりを知る音。
鏡の前で髪をとかしながら、ふと今日一日を思い返す。
佐伯さん。保育園のお母さん。高校生たち。そして。
「……先生。」
ぽつりと口にしてから、はっとする。名前も知らないのに。自分から「先生」と呼んでいた。
「変なの。」
小さく笑う。
ただ、新しいお客さんが来ただけ。それだけのこと。それだけのはずなのに。胸のどこかに、小さな灯りがともったような気がした。
窓辺では、レジ横から運んできたトケイソウの鉢植えが夜風に揺れている。三つに分かれた葉が、月明かりを受けて静かに影を落とした。
紬はそれに気づくことなくカーテンを閉め、明日の仕込みと、パンを通して出会う町の人々について考えながら眠りについた。




