朝焼けのミルクパン(前編)
はじめまして。
以前こちらで小説を連載したりしていました。
忙しいのでAIさんと作品を作っていたら投稿したくなったので不定期で連載してみようと思います。
朝五時。
常磐木町は、まだ夜の名残を抱いたまま静かに息をしていた。
海は薄青く、山の稜線は朝焼けに溶けはじめる。坂道に並ぶ古い家々の瓦は夜露をまとい、どこか遠くでカモメが一声だけ鳴いた。
坂の途中に、小さな木造のパン屋がある。店の名はククノチ。開店まであと二時間。
まだ誰も訪れない店の中では、小鳥遊紬がオーブンの前に立っていた。
焼き上がったばかりのミルクパンを網に並べる。
ぷくり、と丸く膨らんだ生地は朝日に照らされ、まるで小さな雲のようだった。
「……よかった。」
指先で軽く押す。ふわり、と戻る。思わず笑みがこぼれる。
「今日はご機嫌じゃね。」
奥から祖母の千鶴が湯のみを手に現れた。
「そう?」
「鼻歌まで歌っとったよ。」
「えっ。」
紬は耳まで赤くなる。
「うそ。」
「ほんとじゃ。」
千鶴は楽しそうに笑った。
「何かええことでもあった?」
「別に。」
本当に思い当たらなかった。ただ、朝は好きだった。パンが焼き上がる時間も。町が目を覚ましていく時間も。焼きたての香りに包まれる、この店も。それだけだった。
七時。
暖簾を出す。ベルを掛ける。店の扉を開けた瞬間、焼きたての香りが坂道へ流れ出した。
まるで「おはよう」と町へ挨拶するみたいに。
一人目のお客は、毎朝犬の散歩をする佐伯だった。
「紬ちゃん、おはよう。」
「おはようございます。」
「ミルクパン二つね。」
「はい。」
袋へ入れる。
「お孫さん、最近は?」
「受験生は朝が弱うてな。」
「大変ですね。」
「昔はパンの匂いだけで起きとったんじゃが。」
二人で笑う。佐伯が帰ると、今度は保育園へ向かう親子。続いて高校生。商店街の花屋。
毎朝決まった顔が、決まった時間に現れる。その繰り返しが、紬は好きだった。
同じようで、少し違う、いつも通りの朝が毎日ちゃんとがある。そんな町だった。
その頃。坂の下では、一人の青年が立ち止まっていた。
「……思ったより急じゃな。」
スーツ姿のまま坂を見上げ、苦笑する。
藤代蓮。二十七歳。今日から常磐木高校へ赴任する臨時英語教師だった。
岡山の寺で育った彼にとって、海の見える町で暮らすのは初めてだった。地図アプリを見る。
「あと十分……。」
いや、この坂なら十五分はかかるかもしれない。
歩き出そうとした、そのとき。ふわり。甘い香りが風に乗って届いた。
「パン……?」
自然と顔を上げる。視線の先。白い暖簾が朝日に揺れていた。
カラン。
ベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。」
紬が顔を上げる。初めて見る人だった。背が高い。百八十センチは優に超えている。男性にしては長めの髪をハーフアップにくくり、メガネをしている。
紺色のジャケットはきちんと感があるが、麻生地で仕立てられた着心地の良よさそうなものだ。男性はどこか緊張したような表情をしている。ーーこの町の人ではない。小さな地域なので他所から来た人はすぐにわかる。
「おはようございます。」
穏やかな声だった。
「おはようございます。」
紬も自然と笑う。初めて来る客は少し緊張していることが多い。
だから最初の「おはようございます」は、少しだけ優しく言うようにしていた。
「初めてですよね。」
「はい。」
蓮は店内を見回した。広くはない。木の棚が並び、小さな窓から朝日が差し込んでいる。
レジの横には、見慣れない三つ葉の植物。葉の先に朝露が光っていた。
「かわいいお店ですね。」
「ありがとうございます。」
大柄な彼の口からはとても出てきそうにないその一言が、なんだかうれしく、むず痒い。
「おすすめはありますか?」
紬は少し考えてから、焼きたてのミルクパンを手に取った。
「今日なら、これです。」
「じゃあ、それを一つ。」
袋へ入れる。会計を済ませる。それだけの時間なのに、不思議とゆっくりとした時間が流れる。
「高校の先生ですか?」
今朝店の前を通りかかった制服姿の生徒を思い浮かべながら尋ねると、蓮は少し驚いたように目を丸くした。
「分かりますか?」
「新しい先生が赴任されると聞いていました。この時間に初めて来られる方だと、先生かなって。」
「ああ、なるほど。」
「今日から赴任なんです。」
「そうなんですね。」
紬はふわりと笑った。
「ようこそ、常磐木町へ。」
その言葉は、とても自然だった。観光客へ向けるような挨拶ではなく、この町に新しく暮らす人を迎える声だった。
蓮は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「ありがとうございます。」
袋を受け取る。
「行ってらっしゃい。」
何気なく言われたその一言に、蓮は思わず笑った。
「……はい。行ってきます。」
高校へ向かう途中、公園のベンチでミルクパンを一口かじる。ふんわりと甘い。どこか懐かしい味だった。派手ではない。
でも、もう一口食べたくなる。
「おいしいな。」
独り言が漏れる。その瞬間、朝から張りつめていた緊張が少しだけほどけた。
赴任初日。知らない町。知らない学校。それでも、
「頑張ってみようかな。」
そんなことを考えている自分がいた。
夕方。ククノチでは、最後のお客を見送っていた。
「ありがとうございました。」
暖簾をしまおうとした、そのとき。坂道を下ってくる人影が見えた。朝の先生だった。
スーツのジャケットを腕に掛け、少し疲れたような顔をしている。
「あ。」
思わず声が漏れる。蓮も紬に気づき、小さく会釈した。
「まだ開いてますか?」
「もちろんです。」
時計を見る。閉店まであと十五分。
「よかった。」
その一言に、紬は少しだけうれしくなった。朝、一度来てくれた人が、帰りにも寄ってくれる。ありがたいことだ。
「今日はどんな一日でした?」
パンを選ぶ蓮に、自然と言葉が出た。
「思っていたより、あっという間でした。」
「緊張しました?」
「かなり。」
「ですよね。」
二人とも笑う。
「じゃあ、今日は疲れたご褒美に。」
紬は棚から小さなクリームパンを取り上げた。大柄な彼には、似合わないパンだ。
「甘いもの、お好きですか?」
蓮は少し迷ってから笑った。
「……実は、好きです。」
その笑顔を見て、紬もつられるように笑う。
夕暮れの光が店いっぱいに差し込み、焼きたての香りと一緒に、穏やかな時間だけが流れていた。
まだ名前も知らない二人。けれど、この日から。
蓮にとって「学校へ行く坂」は、「ククノチへ寄る坂」になり始めていた。




