新しい朝(後編)
夕暮れの常盤木町。ククノチの灯りが少しずつ遠ざかっていく。閉店後の道を、紬と蓮は並んで歩いていた。いつもの帰り道。何度も歩いた坂道。
けれど、今日はいつもと少し違っていた。隣にいる人の存在が、いつもより更に愛おしく感じる。
「今日来た先生、少し元気になったみたいだったね。」
紬が言う。
「ああ。」
蓮は頷いた。
「最初の頃の俺も、あんな感じだったかもしれん。」
「蓮が?」
紬が驚いて見る。
「うん。」
蓮は少し笑った。
「知らん土地に来て、ちゃんとやれるんかなって思っとった。」
「でも。」
少し間を置く。
「この町の人たちに助けてもらった。」
紬は静かに聞いていた。
蓮がこの町を大切にしている理由。
それは教師としてだけではない。
ここで受け取った温かさを、今度は誰かに渡したいと思っているからだ。
「蓮らしいね。」
紬が笑う。
「そうかな。」
「うん。」
「人のこと、よく見てる。」
蓮は少し照れたように笑った。
「それは紬もじゃろ。」
「私?」
「うん。」
蓮は前を向いたまま言う。
「自分では気づいてないだけで。」
その言葉に、紬の胸が温かくなる。千歳がくれた言葉。そして今、蓮がくれる言葉。
別々の形だけれど、同じ場所へ導いてくれている気がした。
「……蓮。」
「ん?」
「ありがとう。」
紬が小さく言う。蓮は少し首を傾げた。
「何が?」
「なんとなく。」
紬は笑う。
「でも、ありがとうって言いたくなった。」
蓮も優しく笑った。
「紬。」
少し歩いたところで、蓮が足を止める。
「明日、ククノチ休みじゃろ。」
「うん。」
「その……。」
珍しく、蓮が少し迷った表情を見せる。紬は思わず笑った。
「どうしたの?」
「いや。」
蓮は苦笑する。
「言葉にするのって、意外と難しいなと思って。」
「蓮でも?」
「俺でも。こう見えてな。」
二人で笑う。少し間を置いて、蓮は言った。
「……もう少し、一緒におらん?」
その言葉に、紬の胸が小さく跳ねる。でも、不思議と不安はなかった。
「うん。」
紬が頷く。二人はゆっくり歩き出した。向かった先は、蓮のアパートだった。
玄関の前に着く。紬は少しだけ懐かしい気持ちになった。ここへ来るのは二度目だった。一度目は、蓮が風邪を引いた時。心配で、パンとスープを持って訪れた日。
あの日の紬は、ただ蓮が早く元気になることだけを考えていた。でも今は違う。好きな人と、もう少し一緒にいたい。あの頃よりも少しだけ成長した蓮への気持ち。
「入って。」
「うん。」
扉が閉まる。静かな部屋。以前と同じ場所なのに、感じ方は全く違っていた。
「コーヒー飲む?」
「うん。」
蓮が準備をする。紬はその後ろ姿を眺めていた。学校では先生。町では頼れる人。でもここでは、静かに暮らす一人の男性。
そんな蓮の姿を見ることができるのが、少し嬉しかった。
「なんか、不思議。」
紬が言う。
「何が?」
「前にここ来た時は、蓮が寝込んでたから。」
「ああ。」
蓮は笑った。
「そうじゃったな。」
「覚えてる?」
「もちろん。」
蓮はコーヒーを置く。
「忘れるわけない。」
「え?」
「あの日のこと。」
紬は首を傾げる。
「だって。」
蓮は少し照れながら言った。
「好きな人が、自分のために来てくれた日じゃから。」
紬の動きが止まる。
「……好きな人?」
「うん。」
蓮は自然に頷いた。
「俺、あの頃にはもう、紬のこと好きだった。」
紬は思い出す。熱で少し頬を赤くしていた蓮。いつもより柔らかな声。近い距離で見た表情。
普段は落ち着いている人なのに、あの日だけ少し頼りなく見えた。そしてその姿に、胸が大きく揺れたこと。今思えばあれが、初めて蓮を男性として意識した瞬間だったのかもしれない。
「……。」
「紬?」
「え?」
「どうした?」
「なんでもない。」
紬は慌てて視線をそらす。
「顔赤いけど。」
「暑いだけ。」
蓮は部屋を見る。
「エアコンついとるけど。」
「……。」
紬は何も言えなくなる。蓮は不思議そうに笑った。
「でもな。」
蓮の声が少し真剣になる。
「自分が紬のことが好きだとわかったのは、あの日に優しくされたからだけじゃないよ。」
紬を見る。
「紬の生き方が好きだったんよ。」
その言葉に、紬は顔を上げる。
「パンを持ってきてくれたこと。スープを作ってくれたこと。もちろん嬉しかった。でも、それだけじゃない。」
蓮はゆっくり続ける。
「誰かが少しでも楽になればって、当たり前みたいに動けるところ。ククノチで、いろんな人の話を聞いて。その人が前を向けるように、そっと背中を押してるところ。俺は、そういう紬の生き方が好きなんじゃと思う。」
紬は黙って聞いていた。千歳の言葉が胸によみがえる。
『あなたのやり方は、常盤の家が大切にしてきたものを体現している』
今度は蓮が、別の言葉で伝えてくれる。自分が歩いてきた道は間違いではないと。
「だから。」
蓮は少し笑う。
「紬のことが好き。」
少し間が空く。
「あと。」
「?」
「普通に可愛いし。」
一瞬、紬は固まった。
「……今それ言う?」
「本当のことじゃろ。」
「蓮って……。」
紬は困ったように笑う。
「時々、すごくずるい。」
「そう?」
「そう。」
二人で笑った。
その後も、二人はゆっくり話をした。
明日のこと仕事のことククノチのこと。これからのこと。特別な話をしているわけではない。でも、その時間が何より心地よかった。
気づけば、夜は深くなっていた。二人はソファに並んで座っていた。肩が触れ合う距離。時々目が合って、照れたように笑う。何か特別なことをするわけではない。ただ隣にいる。それだけで幸せだった。
「紬。」
「ん?」
蓮が小さく呼ぶ。そして、そっと手を伸ばす。
「……抱きしめてもいい?」
紬は少し驚いた。けれど嫌ではなかった。
「うん。」
小さく頷く。次の瞬間。蓮の腕が、紬を優しく包んだ。力強いのに、苦しくない。
大切なものを扱うような抱きしめ方だった。紬は目を閉じる。聞こえるのは、蓮の心臓の音。近くにいる温もりと香り。そのすべてが、安心できた。誰かに守られること、誰かの温もりを受け取ること。
昔の自分なら、怖かったかもしれない。でも今は違う。この人なら大丈夫だと思えた。
「……あったかい。」
紬が小さく呟く。
「うん。」
蓮も静かに答える。
「俺も。」
二人はしばらく、そのままでいた。やがて自然にソファへ戻る。紬は蓮の肩に寄りかかる。
蓮もその重みを嬉しく感じながら、静かな時間を過ごした。
「……紬?」
しばらくして、蓮が呼びかけるが、返事がない。見ると、紬は蓮の肩にもたれたまま眠っていた。
「寝たんか。」
蓮は思わず笑う。いつもは誰かのために頑張っている紬。そんな彼女が、今は安心しきった顔で眠っている。蓮はそっと髪に触れた。
「……心の準備がまだなんじゃけども。」
小さく呟く。本当なら。もっと格好よく決めたかった。もっと雰囲気のある言葉を選んで。もっと紬をドキドキさせるような夜にして。
「まさか、こんな形で初めてのお泊まりになるとはな……。」
蓮は小さくため息をつく。けれど、その表情はどこか嬉しそうだった。
計画通りではなかった。格好よくもなかった。でもきっと、これが自分たちらしい。好きな人と一緒にいたい。その気持ちに素直になった結果なのだから。
蓮は眠る紬を見つめ、静かに笑った。




