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エピローグ 続いて行くパン



 常盤木町には、今日も穏やかな朝が訪れていた。

 海から吹く風は優しく、坂道には柔らかな光が差し込んでいる。そして町の小さな坂の上にあるパン屋から、焼きたてのパンの香りが漂っていた。


 ククノチ。


 木の扉。店先に咲くトケイソウ。何年経っても、そこだけは変わらない。


「お母さん、もうパン焼いてるの。」


 眠そうな声が聞こえて、紬は振り返った。


「陽毬、おはよう。」


「おはよう……。」


 小さな女の子が、まだ眠そうな顔で厨房を覗いている。小鳥遊陽毬。


「もう起きたの?」


「パンの匂いがしたから。」


 陽毬はそう言って、店の中を見渡した。その姿を見て、紬は自然と笑顔になる。昔の自分が、この子を見たらどう思うだろう。

 人の心が分かってしまうことを怖がっていた幼い自分。誰にも理解されないと思っていた自分。でも今はその力も含めて、愛してくれる人がいる。


「陽毬、朝ごはん食べる前にパン触ったらだめじゃぞ。」


 奥から声がする。蓮だった。ベテラン教師となっても、穏やかな雰囲気は変わらない。

 長い髪を後ろでまとめた姿も、今では町の人たちにはすっかり馴染んでいた。


「お父さん。」


「ん?」


「先生もパン屋さんも早起きの仕事だよね。」


「そうじゃな。朝は早いなあ。」


「先生になったら困っている子を助けられるのかなあ。陽毬も早起きの練習した方がいいのかな。」


 突然の質問に、蓮は少し驚く。


「どうしたん? 教師になりたいんか?」


「昨日、お友達が困ってたから。」


 陽毬は少し考えながら言った。


「どうしたらいいのかなって思って、私が先生になれば解決できるかなって思ったの。」


 蓮は優しく笑った。


「陽毬は優しいな。だけど、教師になるだけでは助けてあげられるとは限らないよ。沢山の経験が必要なんだ。」


 2人のやりとりを見ながら、紬も微笑む。この子は、既に人を思いやろうとする心をもっている。




 その日の昼。ククノチの前で、陽毬は友達と遊んでいた。


「じゃんけんで決めよう!」


 友達が言う。何をするか。誰が先にするか。子どもたちにとっては大事なことだった。陽毬は相手の顔を見る。そして少しだけ迷う。

 実は陽毬はじゃんけんをする際にいつも、相手が何を出そうとしているか。分かってしまうのだ。


「じゃーんけーん……」


 陽毬は勝った。


「やった!」


 嬉しそうに笑う。でも相手の子が少しだけ寂しそうな顔をした。その様子を蓮は見ていた。




 その日の夜。蓮は陽毬の隣に座った。


「陽毬、今日のことなんじゃけど。」


「うん。」


「陽毬。人の気持ちが分かるんじゃないか? そのことは、悪いことじゃないよ。」


 陽毬は顔を上げる。


「寧ろすごいことなのかもしれん。でもな。」


 蓮はゆっくり言葉を選ぶ。


「分かったことを、自分がじゃんけんに勝つためだけに使ったね。陽毬は勝てて嬉しいかもしれん。じょけど、それめ誰かが悲しい気持ちになることもある。」


「じゃあ、どうしたらいいの?」


 陽毬が聞く。蓮は少し笑った。


「分かったことを、その人が嬉しくなるように使うんよ。」


「でもどうしたらいいかわからないよ。皆んなが喜ぶことって何?」


「コツはな、相手の気持ちを勝手に決めつけるんじゃなくて、まずは聞くこと、話すこと、一緒に考えること。」


 陽毬は真剣に聞いていた。


「先生のお仕事の時もそうしてるの?」


 蓮は少し目を丸くする。


「俺?」


「うん。」


 蓮は笑った。


「そうじゃな。先生って、勉強を教えるだけじゃないんよ。困ってる子がおったら話を聞く。迷っている子がおったら、一緒に考える。その子が自分で前を向けるように手伝うんじゃ。」


 陽毬は考える。


「お父さんも、お母さんみたいに人を元気にしてるんだね。」


「時々そうかもしれんな。」


 少し間を置いて陽毬が聞いた。


「じゃあお寺の人もそうなの?」


 蓮は少し驚く。


「どうして?」


「だって。」


 陽毬は当たり前のように言う。


「お寺には困った人が来るんだよね? 悲しい人とか、悩んでる人のお話を聞くんでしょ?」


 蓮はしばらく黙った。そして優しく笑った。


「そうじゃな。お寺も、昔からそういう場所だった。」


 陽毬は嬉しそうに笑う。


「じゃあ私、お寺の人になるーー!」


「え?」


 蓮が目を丸くする。2人のやりとりを聞いていた紬が横で笑った。


「陽毬、急だね。」


「だって、人を助けられるんでしょ?」


「楽しそう!」


 蓮は困ったように笑う。


「陽毬は、寺の厳しさを知らんからな。」


「でもね。」


 陽毬が続ける。


「私、泥中の蓮のお話好きだよ。」


 紬が少し驚く泥中の蓮は仏教の有名な説法で、紬も蓮から何度か聞いている。


「陽毬、それ知ってるの?」


「うん。前にお父さんが教えてくれた。素敵な話だなって思ってるの。」


 陽毬は一生懸命考えながら言う。


「泥の中にいても、綺麗なお花を咲かせるんでしょ? 大変なところにいても、優しい心でいるってことだよね?」


 蓮は静かに笑った。


「そうじゃな。人はな、どんな場所にいるかだけで決まるんじゃない。大切なのは、どんな心でいるかじゃ。」


 陽毬は頷く。


「じゃあ、お寺じゃなくてもできる?」


「できるよ。」


 蓮は答える。


「学校でも。パン屋さんでも。どこにいても、人を大切にすることはできる。」


 そして紬を見る。


「な。」


 紬は笑った。


「うん。ククノチも、そういう場所だから。」




 夕方。ククノチの扉が開く。今日も誰かがやってくる。少し疲れた人、悩みを抱えた人、ただ美味しいパンを食べたい人。

 それぞれの理由で、この店を訪れる。紬はパンを並べながら思う。千鶴から受け取ったもの。千歳から受け取ったもの。そして。蓮と作ってきた日々。 すべては、ここにつながっていた。


「お母さん。」


 陽毬が小さな声で呼ぶ。


「今日も誰かを元気にするパン作るの?」


 紬は笑う。


「うん。」


 少し考えて。


「でもね。パンの味だけじゃないよ。」


 陽毬が首を傾げる。


「大事なのはね。その人のことを大切に思う気持ち。それが、きっと誰かの心を動かすんだよ。」


 蓮が隣で微笑む。それは、千歳が千鶴へ。千鶴が紬へ。そして紬と蓮が陽毬へ渡そうとしているもの。

 人の心を読む力ではない。人の心を明るい方へ動かす力。ククノチの扉が開く。今日もまた誰かの心を少しだけ軽くする一日が始まる。

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