新しい朝(前編)
翌朝のククノチには、いつもと変わらない朝が訪れていた。木の扉を開ける音。厨房から聞こえる道具の音。焼き上がったパンの香り。
昨日、常盤木神社で起きた出来事が嘘のように、町は穏やかな時間を刻んでいる。けれど、紬の中には小さな変化があった。パンを並べる手が、以前より少し軽い。
胸の奥にあった重たいものが、少しだけほどけたような気がしていた。
「紬。」
声をかけられて振り返る。美和がこちらを見ていた。
「なに?」
「……ううん。」
美和は少し笑う。
「なんだか、表情が柔らかくなったなって思っただけ。」
紬は少し照れたように笑った。
「そうかな。」
「うん。」
美和はそれ以上聞かなかった。昨日、紬が何を感じ、何を受け取ったのか。すべてを理解できるわけではない。
でも、目の前の娘が、以前より少しだけ自分を肯定できていることだけは分かった。
「本当に、良かった。」
美和が小さく呟く。
「え?」
「なんでもない。」
美和は笑って、パンを並べる作業に戻った。紬も笑う。ククノチの朝は、今日も始まった。
同じ頃。常盤木高校の職員室では、新しい春の空気が流れていた。
「藤代先生。」
声をかけられ、蓮は顔を上げた。そこにいたのは、今年から赴任してきた音楽教師だった。
「少し聞いてもいいですか?」
「はい。」
新任教師は少し困ったように笑った。
「この学校の生徒って、どんな感じですか?」
蓮は少し考える。
「素直な子が多いですよ。」
「ただ……。」
「最初は少し距離があるかもしれません。」
「距離?」
「はい。」
蓮は窓の外を見る。
「この町の人たちは、急に心を開くというより、時間をかけて関係を作っていく人が多い気がします。」
新任教師は頷いた。
「実は、少し不安で。」
「前の学校では長く勤めていたので、ある程度分かっていたんですけど。」
「ここではまた一からで。」
蓮はその気持ちが少し分かった。自分も、この町へ来たばかりの頃はそうだった。寺のある岡山を離れて、知らない土地で教師として生活を始めた。
けれど。この町で出会った人たちが、少しずつ自分を受け入れてくれた。そして、その中には。
「おすすめの場所ならありますよ。」
蓮が言う。
「え?」
「パン屋です。」
「パン屋?」
「ククノチという店です。」
蓮は自然に笑った。
「落ち着く場所ですよ。」
放課後。新任教師は、蓮に教えてもらった道を歩いていた。坂道の途中にある、小さな木の扉。控えめな看板。そこには、「ククノチ」と書かれている。女性は扉を開けた。
「いらっしゃいませ。」
声をかけたのは小柄でふわふわの茶髪をひとまとめにした、エプロン姿の若い女性。店主のようだった。
「あの……藤代先生に教えてもらって来ました。」
その名前を聞いて、紬は少し笑った。
「先生が?」
「はい。」
「ありがとうございます。」
紬は嬉しそうに頭を下げる。店内には焼きたてのパンの香りが広がっていた。
「おすすめってありますか?」
「そうですね……。」
紬は棚を見る。
「今日は蜂蜜レモンパンがおすすめです。」
「新しい環境で頑張っている人には、ちょうどいいかなって。」
新任教師は少し笑った。
「じゃあ、それをお願いします。」
イートインの席でパンを食べる。一口。優しい甘さと、爽やかな香りが広がった。
「……美味しいです。」
思わず声が漏れる。
「なんでしょう。」
「少し、肩の力が抜ける感じがします。」
紬は微笑む。
「パンって不思議ですよね。食べたから急に何かが変わるわけじゃないけど。少しだけ、また頑張ろうって思える時があるんです。」
新任教師はパンを見つめる。
「実はここに来たばかりで、少し不安だったんです。」
紬は黙って聞く。
「ここに馴染めるのかなって。自分が好きだった音楽を、ちゃんと伝えられているのかなって。」
紬は少し考える。
「先生が音楽を好きになった理由って、何だったんですか?」
「え?」
「最初に音楽を好きになった時の気持ちって、きっと大事だと思うんです。」
新任教師はしばらく黙った。そして、少し笑った。
「……そうですね、忘れていました。誰かに褒められたかったんじゃなくて、ただ音楽が好きだったんです。」
紬は頷く。
「だったら、きっと大丈夫ですよ。その気持ちは、誰かに届くと思います。」
帰る頃。新任教師の表情は、来店した時より明るくなっていた。
「ありがとうございました。」
「また来ます。話、聴いてくれてありがとう。」
「はい。」
紬は笑顔で見送った。
夕方。仕事を終えた蓮がククノチへやってくる。店終いの時間だ。夕暮れの常盤木町。変わらない道を、二人で歩く。




