過去からのメッセージ(後編)
千歳は、紬を見つめたまま静かに微笑んだ。
「紬ちゃん。」
「……はい。」
「あなたは今まで、自分の力で誰かを変えようとしたことはある?」
紬は首を横に振る。
「ありません。」
「どうして?」
「その人が変わるかどうかは、その人が決めることだから。」
迷いなく答えたその言葉に、千歳は心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そう。」
小さく頷く。
「それでいいの。」
風が、4人の間をやさしく吹き抜ける。
「常盤の家はね、人の心を読むことができる家系だと言われてきた。」
紬は静かに耳を傾ける。
「でも、本当に大切にしてきたものは、それじゃない。」
千歳の視線は、まっすぐ紬へ向けられていた。
「人の心は、読んだからといって救えるものじゃない。」
紬は小さく息をのむ。
「誰かの悲しみも、不安も、代わりに背負うことはできない。」
「……はい。」
「だから私たちが大切にしてきたのは、その人が自分の意思で前へ歩けるようになること。」
紬の胸に、これまでククノチで出会ってきた人たちの笑顔が次々と浮かぶ。泣いていた子ども。夫婦喧嘩をした帰りの奥さん。仕事に疲れた会社員。未来に迷っていた高校生。
自分は何か行動したわけではなかった。ただパンを焼いて、話を聞いて、一緒に笑っただけ。そう思っていた。
「紬ちゃん。」
千歳が優しく呼ぶ。
「あなたは、それをパンでやっている。」
紬の目から涙があふれた。
「あなたのパンを食べた人は、自分で立ち上がって、自分で歩き始める。」
千歳は穏やかに続ける。
「それが、常盤の家が何百年も大切にしてきた願い。」
紬は声にならないまま涙を流した。
「だから。」
千歳は柔らかく笑う。
「誇りを持って。」
その一言が、まっすぐ紬の胸へ届く。
「あなたは、常盤の家が大切にしてきたものを、一番あなたらしい形で受け継いでいる。」
紬は何度も頷いた。
「……はい。」
「怖くなったら?」
「……。」
「今日のことを思い出して。」
紬は涙を拭いながら笑った。
「はい。」
「そして、またパンを焼いて。」
紬は大きく頷いた。
「はい。」
千歳は満足そうに笑う。
「それで十分。」
隣で蓮が、そっと紬の横顔を見た。泣きながら笑う紬は、今まで見たことがないほど穏やかな表情をしていた。その姿を見て、蓮も自然と笑みを浮かべた。
千歳は、2人を見て嬉しそうに目を細める。
「……やっぱり。」
小さく呟く。
「2人で笑ってる顔が、一番好き。あなた達お似合いね。」
紬は照れくさそうに笑い、蓮は少しだけ困ったように頭をかいた。
「千歳さん。」
蓮が静かに口を開く。
「ありがとうございます。」
「ううん。」
「紬のことは、俺がちゃんと支えます。」
その言葉に、紬は思わず蓮を見る。蓮は照れた様子もなく、まっすぐ前を向いていた。
「約束します。」
岡山弁ではなく、静かな標準語だった。教師としてではなく、一人の男としての言葉だった。千歳は安心したように笑った。
「よろしくね。理解して寄り添ってくれる人は貴重だからね。」
そして、目を瞑ると千鶴の体から写真そっくりな姿の少女が浮かびたがり、離れていく。その姿は少し透けていて、千歳であることが説明せずとも4人にはすぐにわかった。
「千鶴ちゃん。」
千鶴は小さく返事をする。
「うん。」
「長い間、ごめんね。」
千鶴は静かに首を振った。
「何を謝るの。」
「これまでずっと私のことに囚われてしまったでしょう。忘れられずにいたよね。」
「忘れるわけないでしょう。」
千鶴は笑った。
「姉妹なんだから。」
千歳も笑う。けれど、その笑顔は少しだけ寂しそうだった。
「こんなに長い間、待たせてしまった。」
千鶴は優しく言った。
「今日まで記憶に焼きついていたよ。でも愛おしい時間だった。」
千歳は小さく頷く。
「……うん。」
しばらく沈黙が流れた。やがて千歳が少し照れたように笑う。
「実はね。」
「うん?」
「向こうでもう、千鶴ちゃんの旦那さんには会ってる。」
千鶴が目を丸くした。
「本当に?」
「うん。」
「どうだった?」
「すごく素敵な人だった。」
千鶴の目から涙がこぼれる。
「そうでしょう。」
「千鶴ちゃんを本当に大切にしてた。」
「うん。」
「美和ちゃんのことも。」
「うん。」
「紬ちゃんのことも。」
「そうなんだよ。」
千鶴は嬉しそうに笑った。千歳は穏やかに言う。
「だから向こうでは、みんなで待ってる。」
千鶴は静かに空を見上げた。
「そう。」
「急がなくていい。」
「分かってる。」
「残りの人生を心を燃やして生きて。」
千歳が優しく微笑む。千鶴は涙を流しながら、大きく頷いた。
「うん。」
「約束?」
「約束。」
その瞬間。風がふわりと吹いた。千歳の気配が、ゆっくりと空へ溶けていく。
「千歳ちゃん!」
千鶴が呼ぶ。返事はない、けれど。最後に、とても温かな気持ちだけが胸に残った。
『ありがとう。』
それが最後だった。千鶴は目を閉じ、静かに涙を拭った。
「……行ったね。」
紬がそっと呟く。
「うん。」
千鶴は笑った。
「ちゃんと、送り出せた。」
三人はゆっくり石段を下り始める。鳥居が見えてきた、その時だった。
「……千鶴さま。」
鳥居の脇から神主が歩いてきた。少し離れた場所から、一部始終を見守っていたのだろう。千鶴は静かに会釈した。
「聞いておられたんですね。」
「立ち入るつもりはありませんでした。」
神主は深く頭を下げる。
「ですが、1つだけ常盤家を代表してお伝えしたくて。」
石碑を見上げてから、千鶴を見る。
「いつでも、ここへお戻りください。」
夫と共に半ば駆け落ちのように家を飛び出してから、初めてそんな風に言ってもらえた。千鶴は少しだけ目を細める。そして寂しそうに笑った。
「ありがとうございます。」
一呼吸置く。
「でも。」
神主は静かに千鶴の答えを待つ。千鶴は空を見上げた。
「もう、千歳ちゃんの声は、聞こえないんです。」
神主はその意味を理解した。今日という日が、常盤家が本当の意味で千鶴を手放す日だったのだ。繋がりはもうないに等しい。
常盤家に受け継がれてきた一つの役目が、静かに終わったのだった。
神主は千鶴を引き止めなかった。ただ深く、深く頭を下げる。
「……長い間、本当にお疲れさまでした。」
千鶴も静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
顔を上げると、紬と蓮が待っていた。千鶴は二人の方へ歩き出す。もう振り返らなかった。常盤家の娘としてではなく。パン屋「ククノチ」の千鶴として。そして紬の祖母として。
三人は夕暮れの町へ歩き出す。遠くにはククノチの灯りが見えていた。明日になれば、またパンを焼く。誰かの心が少しだけ軽くなるように。
それが、常盤の家から紬へ受け継がれた、本当の力だった。




