過去からのメッセージ(前編)
千鶴が夢を見た次の日。千鶴はククノチで紬と蓮を神社に誘った。
「千歳姉ちゃんがね。話があるみたいなんだよ。お昼から店を閉めて、神社に一緒に来てくれるかい?」
週末。蓮は仕事が休みでククノチに来ていたので快諾した。紬は少し驚いて、静かに頷いた。
3人は常盤神社へ向かった。神社の鳥居を潜ると、神主が待っていた。
「千鶴さま。皆さんお待ちしていました。夢に千歳様が出てきて、今日皆さんがくると言っていたのです。」
神主は3人を石碑の前へ案内した。
石碑の前を吹き抜けた風が、4人の間を静かに通り過ぎていった。夕暮れの空は、昼と夜の境目をゆっくりと溶かしている。
千鶴は石碑の前に立ったまま、目を閉じていた。紬は息を呑み、蓮は一歩だけ後ろに立って、その様子を見守る。神主もまた、少し離れた場所で静かに頭を垂れていた。
その時だった。千鶴の肩が、小さく震えた。そしてゆっくりと目を開く。その眼差しは、いつもの千鶴でありながら、どこか懐かしい少女の面影を宿していた。
「……はじめまして、蓮さん。茂さんの、血筋の方。」
穏やかな声が境内に響く。蓮は静かに息を吸った。
「千歳さん……ですね?」
千鶴は微笑んだ。
「うん。」
その一言だけで十分だった。紬は祖母の顔を見つめる。
「おばあちゃん……?」
「いるよ。」
今度は千鶴自身の声だった。
「ちゃんとここにいる。見えてるし、聞こえてる。千歳ちゃんが話すことも、全部分かるよ。」
紬は少しだけ安心したように頷いた。千鶴は優しく笑う。
「だから安心して。姉ちゃんが、伝えたいことがあるんだって。」
その笑顔に重なるように、千歳が口を開いた。
「まずは、蓮さん。」
蓮は姿勢を正す。
「はい。」
千歳は少しだけ石碑へ目を向けた。その表情は、十四歳の少女とは思えないほど穏やかだった。
「茂さんはね。」
その名前が出た瞬間、蓮の胸が静かに高鳴る。
「約束を忘れていなかったよ。」
蓮は何も言わない。ただ、その言葉の続きを待った。
「また来るって約束ちゃんと果たしたの。」
千歳は優しく笑う。蓮が静かに首を上げる。
「……祖父とは会えたのですね?」
「うん。」
風がまた木々を揺らした。
「亡くなってから、この場所へ来てくれた。」
千鶴にも、その時の記憶が流れ込んでくる。柔らかな光。石碑の前に立つ茂。あの頃よりずっと年を重ねた姿だった。それでも目だけは、少年の頃と変わらず穏やかだった。
『約束を守れなくて、ごめん。』
最初に口にしたのは、その言葉だった。千歳は首を振った。
『来てくれたでしょう。』
それだけで十分だった。長い年月など、もう関係なかった。茂は静かに笑い、
『やっと来られた。』
そう言ってくれた。その記憶が、千鶴の胸にもそのまま流れ込む。涙が一筋こぼれた。
「茂さんは。最後まで、約束を忘れずにいてくれたのよ。」
千歳が続ける。蓮はゆっくりと目を閉じた。祖父の遺品を整理していた日を思い出す。写真。古びたメモ。常盤木町という地名。祖父が最後まで持っていた、小さな写真。全部、ここへ続いていた。
「……そうですか。」
蓮は小さく頷いた。
「それなら。祖父は、もう謝る必要はありませんね。」
千歳は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。」
蓮は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
それ以上は何も言わなかった。表情には出さない。けれど、その握った拳だけが、胸の内を物語っていた。紬はそんな蓮を見つめる。横顔は穏やかなのに、どこか少しだけ寂しそうで。それでも、どこか肩の荷が下りたようにも見えた。千歳は満足そうに頷いた。
「これで、茂さんも安心する。あなたに心配をかけたと言っていたから。」
そして、今度は紬へ視線を向ける。
「紬ちゃん。」
「……はい。」
紬は思わず背筋を伸ばした。千歳は優しく笑う。
「自分の力が怖かったでしょう。」
その一言で、紬の胸がいっぱいになる。紬は頷いた。
「私だけ、何か違う気がして。」
「うん。」
「人の気持ちが動くたびに、自分がおかしいんじゃないかって思ってた。」
千歳は静かに聞いていた。
「お母さんも心配してたし。」
「うん。」
「だから、できれば普通でいたかった。」
涙が一粒、頬を伝う。千歳はその涙を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「紬ちゃん。」
「はい。」
「あなたは、自分の力を恐れなくていい。」
紬は息を止める。
「あなたには、人の心を動かす力がある。」
紬の瞳が揺れた。
「心を……動かす?」
「そう。」
千歳は微笑む。
「常盤の家は、人の心を読むことだけを大切にしてきたわけじゃない。」
紬は黙って聞いている。
「本当に大切にしてきたのは。」
千歳は一度だけククノチのある町の方角を見る。
「人の心が、自分の意思で前へ動くこと。」
その言葉に、紬はパン屋で出会ったたくさんの人たちの顔を思い浮かべた。子ども。夫婦。仕事に疲れた人。何かを失った人。誰一人、自分が救ったわけじゃない。ただ、パンを渡しただけ。少しだけ話を聞いただけ。それでも帰る頃には、みんな少しだけ笑っていた。千歳は紬を真っ直ぐ見つめた。
「その人自身が、自分で歩き出せるようになる。」
「……。」
「それが、人の心を動かすということ。」
紬は言葉を失っていた。




