石碑の記憶とククノチと言う店(後編)
神主が帰ったあとも、ククノチの中には、いつもの夕方とは違う静けさが残っていた。
扉が閉まり、外から聞こえていた足音も遠ざかる。
紬はしばらく、入口の方を見つめていた。
神主が最後に言った言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――今度、お孫さんを連れていらしてください。
何を聞かされるのだろう。
何を見せられるのだろう。
それよりも、自分の中にあるものが何なのか。
それを知ることが怖いような、知りたいような。
「……なんか、すごい一日だったね」
イートインのテーブルで、美和がぽつりと言った。
原稿用紙を広げていたけれど、さっきから一文字も増えていない。
「うん」
紬も頷いた。
「私、まだ頭の中が追いついてない」
「私もよ」
美和は椅子の背にもたれた。
今日一日で、自分の母親が思っていた以上に複雑な過去を抱えていたことを知った。
母の実家が神社だったこと。
父が母を連れ出したという話の意味。
そして、父がこの店を始めた理由。
何十年も暮らしてきたククノチなのに、知らないことがまだこんなにあった。
「お母さんは、ずっと知ってたんだよね」
美和が言う。
カウンターの向こうで帳簿をつけていた千鶴が顔を上げた。
「何を?」
「ククノチの名前のこととか」
「ああ」
千鶴は少し考えてから、微笑んだ。
「知っていたよ」
「じゃあ、なんで言ってくれなかったの?」
「聞かれなかったからじゃないかねぇ」
「そういうところなんだよなあ、お母さんって」
美和が呆れたように笑う。
千鶴も笑った。
「昔のことを話していたら、今の話をする時間がなくなるからねぇ」
「それは分かるけど」
美和は一度言葉を切った。
「……お父さん、あんなこと考えてたんだね」
千鶴の手が止まる。
「そうだね」
「力がなくても、人の心を救えるって」
「うん」
千鶴は帳簿を閉じた。
「あなたのお父さんらしいだろう?」
「うん。……なんか、すごくお父さんらしい」
美和が笑う。
その笑顔は、少し寂しそうだった。
もう聞くことのできない人のことを、知らなかった形で知っていく。
嬉しいのに、少しだけ胸が痛む。
紬は二人の会話を聞きながら、店の奥へ向かった。
今日一日の間に、たくさんのことがあった。
それでも、ククノチは明日も店を開ける。
明日のパンを焼くために、オーブンも使う。
そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「紬、もういいよ」
千鶴が声をかける。
「うん。これだけやったら終わる」
紬はオーブンの扉を開けた。
焼き上がったパンの香りが、まだかすかに残っている。
昼間に何度も熱を入れた庫内は、もうすっかり冷えていた。
紬は布巾を手に取り、内側を丁寧に拭いていく。
焼き色のついた小さな跡。
粉が入り込んだ隙間。
毎日使うからこそ、気づく汚れもある。
何度も拭いているうちに、少しずつ綺麗になっていく。
それを見ていると、今日起きたことも、同じように少しずつ整理できるような気がした。
「紬ちゃん」
背後から千鶴の声がした。
「なに?」
「今日、怖かったかい?」
紬の手が止まった。
オーブンの扉に映った自分の顔を見る。
「……ちょっと」
正直に答えた。
「そうだろうねぇ」
「でも」
紬は布巾を動かしながら続けた。
「知りたいとも思った」
「そう」
「私の力のこと。おばあちゃんの家のこと。お母さんがどうしてあんなに心配してたのかも」
千鶴は何も言わない。
紬は、少しだけ笑った。
「でも、全部一気に分かると、それはそれで怖いね」
「そうだねぇ」
千鶴の声は穏やかだった。
「知らないことがあるから、明日があるんだよ」
「……それ、おばあちゃんらしい」
「そうかい?」
「うん」
紬はオーブンを閉じた。
最後に取っ手を布巾で拭いて、手を止める。
振り返ると、千鶴がこちらを見ていた。
その顔が、いつもより少しだけ優しく見えた。
「何?」
「いや」
千鶴は首を振る。
「紬ちゃんは、ずいぶん大人になったなぁと思ってね」
「急にどうしたの?」
「何でもないよ」
千鶴は笑った。
その笑顔に、紬は少しだけ首を傾げた。
けれど、追及はしなかった。
美和が椅子から立ち上がる。
「じゃあ、私はそろそろ寝るね。明日も早いし」
「うん。おやすみ」
「おやすみ、紬。お母さんも」
「おやすみ」
美和が店の奥へ消えていく。
紬も最後に店内を見回した。
昼間は人の声で満たされていた場所が、少しずつ夜の顔に戻っている。
テーブル。
椅子。
パンの棚。
そして、磨いたばかりのオーブン。
何も変わっていない。
なのに、自分だけが少し違う場所に立っているような気がした。
「おやすみなさい」
紬が言うと、千鶴が笑う。
「おやすみ、紬ちゃん」
紬が奥へ行ったあと、千鶴は一人で店内に残った。
静かだった。
千鶴は電気を一つずつ消していく。
最後に残った灯りが、店の床に細長い影を落とした。
今日の出来事が頭をよぎる。
茂の名前。
神主の驚いた顔。
石碑が見せたという記憶。
そして、紬。
千歳。
千鶴は、ふと足を止めた。
「……千歳ちゃん」
誰もいない店の中で、名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも、なぜか胸の奥が騒がしかった。
あの子のことを、今日になって何度も思い出す。
神主から話を聞いたからだろう。
それとも――。
「まさかねぇ」
千鶴は小さく笑った。
そして、店を閉めた。
夜は静かに更けていった。
*
布団に入ってからも、千鶴はなかなか眠れなかった。
目を閉じると、千歳の顔が浮かぶ。
十四歳のままの顔。
笑うと少し目尻が下がる。
何か言いたい時には、ほんの少しだけ首を傾ける。
昔と変わらない。
変わるはずがない。
千鶴は天井を見つめた。
「会いたいねぇ」
誰に言うでもなく、呟いた。
それから、自分でも可笑しくなった。
「何言ってるんだろうね、私は」
千歳はもういない。
何十年も前に亡くなっている。
分かっている。
それでも。
今日、神主から千歳の気配を感じたせいなのかもしれない。
胸の奥に、ずっと閉じ込めていたものが、少しずつ動き始めていた。
千鶴は目を閉じた。
やがて、意識がゆっくりと沈んでいった。
*
風の音がした。
さらさらと、木の葉が擦れる音。
千鶴は目を開けた。
目の前に、長い石段がある。
見覚えのある景色だった。
石段の先。
鳥居。
その向こうに広がる境内。
「……常盤木神社?」
夢だと分かっているのに、声が出た。
千鶴は石段を上った。
一段。
また一段。
足は不思議なくらい軽かった。
昔、何度も歩いた道。
幼い頃、千歳と一緒に駆け上がったこともあった。
千歳はいつも千鶴より少し先を走っていた。
「千鶴ちゃん、早く!」
そんな声が、どこかから聞こえた気がした。
千鶴は思わず笑う。
「待ってよ、千歳ちゃん」
そう呟いた瞬間。
風が止まった。
境内の奥。
ククノチ神の石碑の前に、人影が立っていた。
小さな背中。
長い黒髪。
白い服。
千鶴の足が止まる。
その姿を、見間違えるはずがなかった。
「……千歳ちゃん」
少女が振り返る。
十四歳の顔。
あの日のままの姿。
けれど、その目だけは、長い年月を知っているように穏やかだった。
「久しぶり、千鶴ちゃん」
千鶴の目に、涙が浮かんだ。
「千歳ちゃん……」
もっと近くへ行きたい。
もっと顔を見たい。
声を聞きたい。
話したいことが、山ほどあった。
けれど、千鶴が一歩踏み出すより先に、千歳が微笑んだ。
「会いたかった」
千鶴の唇が震える。
「私も……」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
千歳は、昔と同じように少しだけ首を傾けた。
「うん」
その返事があまりにも昔のままで、千鶴の胸が締めつけられる。
「千歳ちゃん、私ね……」
話したい。
今までのことを。
あれから何があったのか。
夫と出会ったこと。
美和が生まれたこと。
紬が生まれたこと。
そして、今日、茂の孫に会ったこと。
言葉が次々に浮かぶ。
けれど。
「その話は、明日」
千歳が静かに言った。
「……明日?」
「うん」
千鶴は戸惑う。
千歳は、石碑へ一度だけ目を向けた。
「蓮さんと」
そして、
「紬ちゃんと」
千鶴の目を見つめる。
「三人で、ここへ来て」
風が吹いた。
石碑の周りの木々が、大きく揺れた。
千鶴は、千歳の顔を見つめた。
「どうして?」
千歳は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑う。
「明日、話すから」
「今じゃ駄目なの?」
思わず千鶴は言った。
「私、もっと千歳ちゃんと話したいよ」
千歳の目が、ほんの少し細くなる。
「私もだよ、千鶴ちゃん」
「じゃあ――」
「明日」
また同じ言葉。
千鶴は、胸の奥に湧いた不安を押し込めるように、頷いた。
「……分かった」
「三人で来てね」
「うん」
「約束」
その言葉に、千鶴は息を呑んだ。
約束。
その言葉が、遠い昔の記憶と重なった。
あの日。
茂がこの町を去る時。
千歳が交わした約束。
そして、守られることのなかった約束。
千鶴は千歳を見つめる。
「千歳ちゃん……」
まだ言いたいことがある。
まだ、帰ってほしくない。
けれど、千歳の姿が少しずつ薄れていく。
「待って」
千鶴が手を伸ばした。
「千歳ちゃん!」
千歳は振り返った。
昔と変わらない、優しい笑顔。
「また明日」
「待って、千歳ちゃん!」
風が吹く。
少女の姿が、木々の向こうへ溶けていく。
千鶴は必死に手を伸ばした。
「もっと話したいよ……!」
けれど、その声に答えるように、千歳はただ一度だけ微笑んだ。
そして――
消えた。
静寂が戻る。
石碑だけが、そこに残っている。
千鶴は一人、立ち尽くしていた。
胸の奥に、まだ千歳の声が残っている。後編
――三人で来て。
千鶴は、涙を拭った。
「……分かったよ、千歳ちゃん」
誰もいない境内に、静かな声が落ちた。
「明日、三人で行くからね」
その言葉を最後に、夢の景色がゆっくりと白くなっていった。




