石碑の記憶とククノチと言う店(中編)
入口のベルが鳴った。
「ただいま」
聞き慣れた声に、紬が振り返る。
「蓮」
いつものように呼びかけたものの、店の空気がどこかおかしいことに、蓮もすぐに気づいたようだった。千鶴は奥に立っている。その前には、先ほど神社で会った神主がいる。
「……神主さん?」
蓮が声をかけると、神主はゆっくりと振り返った。その目が、蓮の顔を捉える。神主の中で、先ほど流れ込んできた記憶が再び揺れた。古い境内。石碑の前に立つ少年。その少年の隣で笑う、少女。藤代茂。
そして、目の前にいる蓮。血のつながりなど、顔立ちだけで分かるものではない。それでも、神主には分かった。この男は、あの少年の血を引いている。
「あなたのお祖父さまのことを、少しお話ししてもよろしいですか」
蓮は、表情を改めた。
「祖父のことを?」
「ええ」
神主は、店内を見渡した。紬が立っている。千鶴がいる。そして、蓮がいる。まるで、長い時間をかけて散らばっていたものが、ひとつの場所に集まったようだった。
「私は先ほど、この店でパンをいただきました」
神主は、テーブルの上に残った皿へ目を向けた。
「その時に、いくつかの記憶を見ました」
蓮の眉がわずかに動く。
「記憶?」
「私のものではありません」
神主は、窓の外へ目を向けた。
「常盤木神社にある、あの石碑が見てきたものです」
紬は黙って聞いていた。蓮も、何も言わずに神主の言葉を待っている。
「あなたのお祖父さまは、昔、常盤木町で迷子になった」
「……はい」
蓮が答えた。
「祖父は、そう言っていたそうです」
「神社で、千歳さんと出会った」
蓮の顔が強張った。千鶴が、静かに目を伏せる。
「はい」
神主は続けた。
「お祖父さまは、旅先で見てきた寺や仏像の話を、千歳さんに聞かせていた。千歳さんは外へ出ることができなかったから」
蓮は、静かに聞いていた。その話は、先日千鶴から聞いている。けれど、石碑が見ていた記憶として語られると、同じ出来事でも違って感じられた。
「二人は、親しくなった」
神主は、淡々と語っていた。けれど、その声の奥には、見てしまったものへの戸惑いが残っている。
「そして、お祖父さまは町を去る時に、また来ると約束した」
蓮の指が、わずかに動いた。
「ええ。……祖父は、来ようとしていたんです」
蓮は、千鶴を見た。
「祖父の遺品を整理していた時に、常盤木町のことを調べていた形跡がありました。写真も残っていた。ここへ来ようとしていたんだと思います」
千鶴は、しばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと息を吐く。
「そう……」
その声は、とても小さかった。
「来ようとしていたのねぇ」
千鶴は、窓の外へ目を向けた。その横顔を見て、蓮は言葉を続けるのをやめた。千鶴の中に、きっと今、遠い昔の景色が広がっている。
姉の隣にいた少年。その少年が去っていった日。また来ると言った言葉。そして、その後に続いた長い年月。
「でも、来られなかった」
千鶴が、ぽつりと言った。
「ええ」
蓮が答えた。
「寺の跡を継ぐために、忙しかったんだと思います」
千鶴は、静かに頷いた。
「そうだねぇ。あの子が亡くなったことも、知らなかったんだろうね」
「……はい」
神主は二人の会話を聞いていた。自分が見た記憶の中には、千歳の死もあった。けれど、蓮の祖父がその後どう生きたのかは知らない。そして蓮もまた、祖父が何を思っていたのかを、完全には知らない。それでも、今ここで二つの時間が重なっている。千鶴が、少し困ったように笑った。
「それにしても、あの人がねぇ」
「何がですか?」
紬が尋ねる。千鶴は、蓮を見る。
「茂さんが、ここへ来ようとしていたことだよ」
その声には、長い年月を越えて届いた知らせを受け取った人のような響きがあった。
「きっと、約束を覚えていたんだねぇ」
蓮は、黙って頷いた。その時、美和が店の奥から出てきた。
「何の話?」
店内にいる神主を見て、少し驚く。
「神主さん、まだいらしたんですね」
「ええ。少しお話をしていました」
美和は、蓮と千鶴の顔を見比べた。
「何かあった?」
紬が、説明しようと口を開く。けれど、その前に美和が千鶴を見た。
「お母さん」
「何だい?」
「さっきの話、聞こえたんだけど」
「うん」
「お母さんの実家って、常盤木神社なの?」
千鶴は、少しだけ目を丸くした。それから、穏やかに頷いた。
「そうだよ」
「……やっぱり?」
美和は、しばらく黙っていた。
「私、お母さんは駆け落ちしてきたんだと思ってた」
千鶴が、ふっと笑った。
「まあ」
「だって、実家に帰ったこと、一度もないじゃない」
「そうだねぇ」
「それに、お父さんがずっと言ってたじゃん。『俺があの家からお母さんを連れ出してやった』って」
「ああ……」
千鶴は、懐かしそうに目を細めた。
「あの人は、そういう言い方が好きだったからねぇ」
「違うの?」
「違うとは言っていないよ」
「やっぱり駆け落ちじゃん」
「まあ、そう思うよねぇ」
千鶴は楽しそうに笑った。
その笑い方があまりにもいつも通りだったので、美和は少し拍子抜けしたような顔をした。
「でもね」
千鶴は、ゆっくりと続けた。
「あの人が私を連れ出したというより、私があの人について行ったんだよ」
美和は黙った。千鶴は、遠くを見るような目をした。
「千歳が亡くなったあと、私は家にいても、何をすればいいのか分からなくなっていたんだよ」
紬は、祖母の声を聞いていた。千歳の話は、もう知っている。けれど、千歳を失ったあとの千鶴の人生については、これまであまり聞いたことがなかった。
「千歳がいた頃は、あの子の代わりに役目をすることもあった。あの子のそばにいることもあった」
千鶴は、自分の手を見た。
「でも、あの子がいなくなったら、私は何者なのか分からなくなったんだよ」
美和の表情が変わる。
「それで、お父さんと?」
「そうだねぇ」
千鶴は小さく笑った。
「あの人は、私の家のことなんて何も知らなかった」
「力のことも?」
「もちろん」
千鶴は、穏やかに答えた。
「ただの私を見ていたんだよ」
その言葉に、紬は胸の奥が少しだけ揺れるのを感じた。千鶴は、祖父にとっては千歳の妹でもなく、常盤家の娘でもなければ、役目を終えた人間でもなかった。ただ、千鶴そのものだった。
「お父さんは、力がなくても人の心を救うことはできるって言ってた」
美和が、少し驚いた顔をする。
「お父さんが?」
「そうだよ」
千鶴は頷いた。
「あの人には、常盤家のような力はなかったからねぇ」
神主が静かに聞いている。
「人の心を読むこともできない。強い感情を感じ取ることもできない。でも、それでも誰かの心を軽くすることはできるんじゃないかって」
紬は、店の中を見渡した。パンが並んでいる。木の棚がある。小さなテーブルがある。ここで、何人もの人がパンを食べてきた。泣きそうな顔で来た人。疲れた顔で来た人。少しだけ笑って帰っていった人。
「だから、パン屋を始めたの」
千鶴が言った。
「それが、ククノチ?」
美和が尋ねる。
「そうだよ」
「名前の由来も?」
「神社の石碑からだねぇ」
神主の目が、わずかに動いた。
「ククノチ神の石碑を見て、あの人が決めたんだよ」
千鶴は、記憶を辿るように話した。
「あの人は、木は目に見えないところで根を張っているんだって言っていた」
紬は、黙って聞いていた。
「人の心を救うのも同じだろうって。自分が誰かの心に何を残したのかは、見えないことが多い。でも、その人が少しだけ前を向けたなら、それでいいんじゃないかって」
美和は、黙り込んでいた。父親が、そんなことを考えていたとは知らなかった。
「……私、お父さんからそんな話、聞いたことない」
「そうだろうねぇ」
千鶴は、可笑しそうに笑った。
「『俺が千鶴をあの家から連れ出した』という方が、あの人には話しやすかったんだろう」
「絶対その方が格好いいと思ってたよ」
「そうかもしれないねぇ」
美和も、思わず笑った。けれど、その笑顔の奥には、父親の知らなかった一面を知った戸惑いがあった。自分が育った店。自分の父親が始めた店。その名前が、母親の過去とつながっていた。そのことを、今まで知らなかった。
神主は、しばらく黙っていた。やがて、紬へ視線を向ける。
「あなたのお力が、どこから来たものなのか」
紬の身体が、わずかに強張った。
「私は、まだ何も断言できません」
神主は、正直に言った。
「常盤家に伝わるものは、人の心に関する力です。しかし、現れ方は人によって違います」
紬は、黙って聞いている。
「あなたのお祖母さまは、姉上の心を感じ取る力を持っていた。あなたのお祖母さまの姉上は、強い感情を受け取る力が強かった」
神主は、一度言葉を切った。
「私は、人の心の声を時々聞き取ることができます」
そして、紬をまっすぐ見た。
「ですが、あなたの心は聞こえませんでした」
紬の胸が、どくんと鳴った。
「……私の心が?」
「ええ」
神主は、静かに頷いた。
「それが何を意味するのかは、まだ分かりません」
分からない。その言葉に、紬は少しだけ息を吐いた。答えが出ないことに、安心したのかもしれない。もし今ここで、
「あなたの力は常盤家のものです」
と断言されたら。きっと、受け止められなかった。けれど、分からないままなのも怖い。自分の中にあるものが、どこから来たのか。母がなぜ、あの力を恐れたのか。祖母の家系に何があったのか。紬は、自分の手を見た。神主が立ち上がった。
「今日は、これで失礼します」
「もう帰るんですか?」
千鶴が尋ねる。
「ええ」
神主は入口へ向かった。そして、扉に手をかける前に振り返った。
「千鶴さん」
「何だい?」
「今度、お孫さんを連れて、常盤木神社へいらしてください」
紬は顔を上げた。神主の視線が、自分に向いている。理由は、聞かなくても分かる気がした。けれど、まだ聞く勇気はなかった。千鶴は、しばらく神主を見つめた。やがて、静かに頷く。
「分かったよ」
神主は一礼し、店を出ていった。ベルの音が、店内に残った。しばらく、誰も話さなかった。
「……お母さん」
美和が、千鶴を見る。
「何だい?」
「お父さんがククノチを始めた理由、私、知らなかった」
「そうだねぇ」
「お母さんの実家のことも」
「そうだねぇ」
「何で話してくれなかったの?」
千鶴は、少し困ったように笑った。
「話す必要がなかったからかねぇ」
「必要って……」
「今まで、あなたたちはククノチでちゃんと暮らしてきただろう?」
美和は黙った。
「それなら、私の昔の話なんて、わざわざすることでもないと思っていたんだよ」
「でも、今日いきなりいっぱい出てきたよ」
「そうだねぇ」
千鶴は、店の中を見回した。
「そろそろ、話す時期だったのかもしれないね」
その言葉に、紬は顔を上げた。千鶴は、何かを知っているようにも見えた。けれど、紬にはそれが何なのか分からなかった。
「紬」
蓮の声がした。紬は振り返る。
「送るよ」
「え?」
「家まで」
「大丈夫だよ」
反射的にそう答えた。蓮は、少しだけ目を細める。
「大丈夫じゃない顔しとる」
「そんな顔してる?」
「しとる」
あまりに迷いのない返事だったので、紬は思わず笑った。
「最近、そういうところすごく分かるようになったよね」
「分かるようになったんじゃなくて」
蓮は、店の外へ歩きながら言った。
「紬のことを見とるだけじゃ」
胸が、また小さく跳ねた。外へ出ると、夕方の空気が二人を包んだ。町は、一日の終わりに向かって静かになり始めている。しばらく歩いてから、紬が口を開いた。
「……私の力って」
「うん」
「おばあちゃんから来たのかな」
蓮はすぐには答えなかった。
「そうかもしれん」
紬は、少し意外に思った。
「怖くないの?」
「何が?」
「私が、普通じゃないかもしれないこと」
蓮は、少しだけ笑った。
「紬は、昔から普通じゃないじゃろ」
「えっ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
蓮が困った顔をした。紬は、思わず吹き出した。
「ふふっ」
「何で笑うん?」
「今、先生みたいだった」
「先生?」
「うん。言葉を選びながら説明してる時の蓮」
「……そうですか」
「あ、また敬語」
蓮は、しばらく黙った。それから、少し困ったように笑った。
「もう、どれで話せばええか分からんようになってきた」
「どれでもいいよ」
「どれでも?」
「うん。蓮は蓮だから」
蓮は、少しだけ目を見開いた。それから、柔らかく笑った。
「それ、俺が言おうと思っとったのに」
「先に言っちゃった」
「じゃあ、俺が言うことなくなるじゃろ」
「そんなことないよ」
紬は、蓮の横顔を見た。
「蓮はいつも、私が思ってることを先に言うから」
「そうなん?」
「うん」
「じゃあ、今日は俺が先に言う」
蓮は足を緩め、紬を見た。
「紬は、紬じゃけん」
紬は、何も言えなかった。胸の奥にあったものが、ほんの少しだけほどけていく。
「……ずるい」
「何が?」
「そういうこと言うの」
「何で?」
「分かんないけど、ずるい」
「じゃあ、ずるいままでおる」
「開き直った」
二人の間に、笑いが落ちた。けれど、紬の心の中には、まだ神主の言葉が残っていた。常盤家。千歳。千鶴。そして、自分。自分の力は、どこから来たのだろう。祖母からなのか。それとも、もっと別のものなのか。紬は、まだ答えを出せなかった。家の前に着く。蓮が足を止めた。
「今日は、もう考えんでええよ」
「無理だよ」
紬は苦笑した。
「考えちゃう」
「そうか」
蓮は、少し考えるように空を見上げた。
「じゃあ、明日一緒に考えよう」
紬は蓮を見た。
「……一緒に?」
「うん」
あまりにも自然な言い方だった。紬は、ゆっくり笑った。
「うん」
「じゃあ、また明日」
「また明日」
蓮が歩き出す。紬は、その背中を見送った。自分の中にあるものが、何なのかはまだ分からない。
けれど、今日ひとつだけ分かったことがある。ククノチは、特別な力を持つ人間だけが作った場所ではない。力を持たない一人の人間が、それでも誰かの心を救いたいと願って始めた場所だった。




