石碑の記憶とククノチと言う店(前編)
常盤木神社の境内には、午後の光が静かに落ちていた。夏の終わりを感じさせる風が、木々の葉を揺らしている。神主は拝殿の戸を閉めると、しばらくその場に立っていた。先日、ここを訪れた男のことが、どうにも気になっていた。藤代蓮。あの男の心の中に、一瞬だけ浮かんだ言葉。
――ククノチ。
神主は、あの時のことを思い出していた。 蓮と話をしている最中、突然、声に出されていない言葉が聞こえた。それは、神主が聞き取った心の声だった。けれど、その言葉が何を意味するのかは分からなかった。常盤木神社の境内には、ククノチ神を祀った古い石碑がある。
神主にとっては、幼い頃から見慣れたものだった。だからこそ、その言葉が蓮の心に浮かんだことが引っかかっていた。
そして、あの女性。蓮と一緒に神社を訪れていた、小鳥遊紬。神主は、彼女の心を聞こうとした。聞こうとした、というより、いつものように自然に感じ取ろうとした。けれど、何も聞こえなかった。心が空っぽだったわけではない。表情もあった。声の揺れもあった。人を思いやる気持ちも、戸惑いも、笑いも、確かにそこにあった。なのに、その奥に触れようとすると、そこだけが静かだった。不思議な女性だった。
神主は、境内を見渡した。蓮の祖父のこと。写真に写っていた女性のこと。そして、紬のこと。何かが繋がっている。そんな気がしてならなかった。
その日、神主は午後の仕事を終えると、いつもとは違う道を歩いた。どこへ行くつもりだったのか、自分でもはっきりしていなかった。ただ、足が自然と町の方へ向かっていた。常盤木町の古い通りを抜ける。海からの風が、少し湿った匂いを運んでくる。坂道を上る。見慣れた町の景色の中に、見覚えのない小さな店が見えた。
木造の建物。控えめな看板。その名前を見た瞬間、神主は足を止めた。
――ククノチ。
「……ここか」
思わず、声が漏れた。自分が何を探していたのかは分からない。けれど、ここへ来るべきだったような気がした。神主は、しばらく店の前に立っていた。やがて、意を決したように扉を開ける。小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
厨房の方から、紬の声がした。神主は、すぐに彼女の姿を見つけた。
「あ」
紬も顔を上げる。
「あの、この前の……」
神主が続けると、紬は小さく笑った。
「やっぱり。常盤木神社の神主さんですよね」
「覚えていてくれたんだね」
「はい。神社でお会いしましたから」
紬はそう言って、手にしていた布巾を置いた。神主は店内を見回した。小さな店だった。けれど、どこか落ち着く。焼きたてのパンの香りが、ゆっくりと店の中に広がっていた。
「今日は……」
神主は、何と言えばいいのか分からず、言葉を探した。紬はそんな神主を見て、少し首を傾げる。
「何かお探しですか?」
「いや……」
神主は、苦笑した。
「自分でも、何を探しているのか分からないんだ」
紬は少し驚いたように目を瞬かせた。けれど、すぐにいつものような柔らかな表情に戻る。
「そういう時もありますよね」
その言葉が、妙に自然だった。神主は、また紬の心を探ろうとした。しかし、やはり何も聞こえない。
ただ、目の前の女性が挙動不審な自分を心配していることだけは、表情から分かった。
「よかったら、何か召し上がりますか?」
「え?」
「せっかく来てくださったので」
紬は、棚の方へ歩いていく。
「今日はこれが焼きたてです」
そう言って、ひとつのパンを指した。神主は、パンを見た。特別なものには見えなかった。けれど、なぜかそのパンを選んだ。
「では、それを」
「はい」
紬はパンを皿に載せた。神主は、イートインの席に座った。窓から差し込む光が、テーブルの上に細長く伸びている。紬は、少し離れたところで仕事をしていた。神主はパンを見つめた。焼きたての香りがする。それは、神社で嗅ぐ木々の匂いとは違っていた。けれど、どこか懐かしい。理由は分からなかった。神主は、パンを口に運んだ。その瞬間だった。
――風が吹いた。
そう思った。けれど、店の中の空気が動いたわけではない。神主の中に、何かが流れ込んできた。最初に見えたのは、石だった。古い石碑。苔のついた表面。刻まれた文字。ククノチ神。神主は、息を止めた。
それは、常盤木神社にある石碑だった。けれど、見ている場所が違う。今の境内ではない。もっと古い。木々がまだ若く、境内の景色も今とは違っている。石碑の前に、少女が立っていた。ーー千歳。その名が、なぜか分かった。その隣には、もう一人。よく似た顔をした少女。ーー千鶴。そして、少し離れた場所に、少年がいた。
少年は、見慣れない町の中で迷子になっていた。藤代茂。その名前も、神主には分かった。茂が、寺の話をしている。旅先で見たものを話している。 千歳が、静かに耳を傾けている。 その心が、強く揺れている。喜び。興味。そして、穏やかな安心。神主は、目の前の光景に息を呑んだ。これは、自分の記憶ではない。自分は、この場にいなかった。それなのに、見える。
石碑が見てきたもの。長い年月の中で、そこに立ち続けた石が、見つめてきた記憶。映像は、次々に流れていった。千歳の代わりに役目を果たす千鶴。茂と親しくなっていく千歳。そのそばで二人を見つめる千鶴。茂が町を去る日。また来ると約束する姿。そして、病床の千歳。白い顔。千鶴の手。十四歳の少女の中にある、強い恐怖と、それでも誰かを心配する優しさ。神主は、胸を押さえた。
「……っ」
あまりにも多かった。知らないはずの人々の人生が、一度に押し寄せてくる。その中に、千鶴の夫の姿もあった。千鶴が家を出る。その隣にいる男が、何かを語っている。力がなくても、人の心を救うことはできる。その思い。パンを焼く。店を開く。そして、石碑を見上げる。ククノチ。その名を、店につける。記憶はそこで途切れた。
「……はぁ……」
神主は、深く息を吐いた。目の前には、食べかけのパンがある。けれど、もう味は分からなかった。
「大丈夫ですか?」
紬の声がした。神主は顔を上げた。その時だった。店の奥から、千鶴が出てきた。
「どうしたんだい?」
神主は、千鶴を見た。そして、息を呑んだ。記憶の中にいた千歳と、目の前の女性の顔が重なる。
「あなたは……」
千鶴が足を止める。
「千歳様……?」
神主の声が、震えた。千鶴は、静かに目を見開いた。そして、少しだけ首を振った。
「いいえ」
その声は穏やかだった。
「私は、妹の方ですよ」
神主は、千鶴を見つめた。石碑が見てきた長い記憶の中にいた、もう一人の少女。千歳の隣にいた少女。千歳の代わりに役目を果たし、そして家を出た女性。神主は、ようやく目の前の人物と記憶の中の人物を重ね合わせた。
「……そうでしたか」
千鶴は、神主の顔をじっと見ていた。久しぶりに会った甥の顔を。神主は、ゆっくりと呟いた。
「では、あなたが……」
千鶴が、わずかに眉を動かす。
「お役目を終えて……静かに暮らしておられるという……」
千鶴の顔から、微笑みが消えた。ククノチの店内に、静かな時間が落ちた。その時、入口のベルが鳴った。紬が振り返る。千鶴も、神主も、同時に入口を見た。
「ただいま」
蓮が、店の中へ入ってきた。そして、神主の姿を見つける。
「……神主さん?」
神主は、蓮を見た。その瞬間、石碑の記憶の中にいた少年の姿と、目の前の男の姿が重なった。藤代茂。その血を引く者。神主は、息を呑んだ。千鶴もまた、蓮を見ていた。紬だけが、何も知らないまま、三人の顔を見比べている。
ククノチという名を持つ店の中で。長い年月を隔てた記憶が、今、再び同じ場所に集まろうとしていた。




