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祖母の過去(後編)

 千鶴は、写真の中の千歳をしばらく見つめていた。その横顔には、懐かしさだけではないものが浮かんでいた。蓮は、テーブルの上に置かれた写真へ視線を落とした。若い祖父。

 その隣に立つ、千歳という女性。背後には、常盤木神社の石碑。そして、二人の間には、もう一度会うという約束があった。


 蓮が、ゆっくりと口を開いた。


「祖父は……本当に、また来ようとしていたんです。」


 千鶴が顔を上げた。


「茂さんが?」


「常盤木町に戻ろうとしていたんだと思います。」


 蓮は、言葉を選んだ。


「まだ全部分かっているわけではありません。でも、遺品の中に、常盤木町のことを調べていた形跡があったんです。ただ、何らかの理由で来ることが叶わなかった。」


 千鶴は、黙って蓮を見つめていた。


「祖父が亡くなったあと、遺品を整理していて、古い写真や書き残したものを見つけました。神社のことも、ククノチ神のことも……。」


 蓮は、写真へ視線を落とした。


「だから、祖父は約束を忘れていたわけじゃなかったんだと思います。」


 千鶴の表情が、わずかに変わった。ほんの少し、目が見開かれる。


「……そう」


 それだけを言って、千鶴は黙った。店内に、時計の音が響いた。紬は、千鶴の顔を見ていた。千鶴は、何かを考えている。けれど、それは驚きだけではないように見えた。長い間、心のどこかに置かれていたものを、突然誰かに拾い上げられたような。


「来ようとしていたんだねぇ。」


 千鶴は、ぽつりと言った。


「はい。」


 千鶴は写真へ目を落とした。


「茂さんは、来ようとしていたんだ。」


 同じ言葉を、今度は自分に確かめるように繰り返す。蓮は頷いた。けれど、約束は果たされなかった。その事実だけは変わらない。それでも忘れていたわけではなかった。


「そうかい。忘れていたんじゃなかったんだね。」


 千鶴は、静かに息を吐いた。そして、写真の中の千歳を見た。


「姉ちゃんに、そう伝えてやりたかったねぇ」


 その言葉に、蓮の胸が少し詰まった。千鶴は、千歳が待っていたことを知っている。茂がいつか来ると信じていたことを知っている。だからこそ、来なかった茂を、千歳の代わりにどこかで待ち続けていたのかもしれない。

 蓮は、少し迷いながら尋ねた。


「千歳さんは……祖父が来なかったことを、どう思っていたんでしょうか。」


 千鶴は、すぐには答えなかった。やがて、写真の中の千歳に向かって話しかけるように、静かに言った。


「姉ちゃんはねぇ、茂さんを恨んではいなかったよ。」


「……そうなんですか?」


「うん。」


 千鶴は微笑んだ。


「姉ちゃんは、茂さんの心を知っていたからねぇ。」


 蓮は、少し考えた。


「心を……?」


「茂さんは、来ると言った時、本当に来るつもりだったんだと思うよ。」


 千鶴は、ゆっくりと続けた。


「姉ちゃんには、それが分かっていたんじゃないかねぇ。」


 千歳は、人の心を強く感じ取る力を持っていた。だから、茂が口先だけで約束したのではないことを知っていた。あの時の茂の心は、静かで、嘘をついているわけではなかった。


「だから、姉ちゃんは待っていたんだと思う」


 千鶴は言った。


「来ると約束したから」


 千歳は、茂が来る日を待った。神社の境内に風が吹くたびに。人の気配を感じるたびに。もしかしたら、茂かもしれないと。千鶴は、その時間を知っている。千歳の心が、どれほど静かに、そして長く待ち続けていたかを。千鶴は、少し目を伏せた。


「姉ちゃんは、待ちきれなかった。十四の時に亡くなったんだよ」


 紬の表情が、静かに曇った。


「十四……。」


「病気だったんだ。」


 千鶴は、淡々と話した。けれど、その声には、長い年月を経ても消えない痛みがあった。


「白血病が分かってからは、あっという間だったねぇ」


 千歳は、もともと身体が弱かった。だから、千鶴も家族も、最初はいつもの体調不良だと思っていた。けれど、そうではなかった。病院へ行き、検査を受け、病名を告げられた。千鶴には、その時の千歳の心が分かった。怖かった。不安だった。けれど、それだけではなかった。


「姉ちゃんはねぇ、自分が死ぬことより、私のことを心配していたんだよ。」


 千鶴は、寂しそうに少し笑った。


「私が一人になると思っていたんだろうねぇ。」


「千鶴さんのことを?」


「双子だからねぇ。」


 千鶴は、写真の中の千歳を見つめた。


「私たちは、ずっと一緒だったから。」


 千歳が感じたものは、千鶴にも分かった。千鶴が感じたものは、千歳にも伝わった。それは、二人にしか分からないつながりだった。


「最後の頃はねぇ、姉ちゃんの力も、ずいぶん弱くなっていたよ」


 千鶴は言った。


「身体が弱っていたからなのか、それとも別の理由なのかは分からないけどねぇ」


 千歳は、以前のように強い感情を受け取って苦しむことも少なくなっていた。けれど、千鶴には分かっていた。千歳の中にあるものが、少しずつ遠くなっていくことが。千鶴は、姉の手を握っていた。千歳は、目を閉じていた。その心は、静かだった。怖さもあった。悲しさもあった。けれど、それに呑み込まれてはいなかった。

 まるで、千歳自身が、茂のように静かな心で最後の時間を過ごしているようだった。


「姉ちゃんは、最後まで茂さんのことを覚えていたよ。」


 千鶴は言った。蓮は、黙って聞いていた。


「また来るって言っていたね、って。」


 千鶴の声が、少しだけ震えた。


「そう言い続けていた。」


 蓮は、写真を見つめた。祖父は、来ようとしていた。千歳は、待っていた。けれど、二人は再び会うことができなかった。それでも約束が嘘だったわけではない。待っていた時間が無意味だったわけでもないはずだ。千歳の心の中には、茂が確かに残っていた。そして、茂の人生の中にも千歳は残っていた。


「それから後なんだけども……」


 千鶴が、ふと口を閉じた。紬が顔を上げる。


「千歳さんが亡くなってからのことですか?」


「うん」


 千鶴は答えた。その声が、少しだけ変わった。


「姉ちゃんがいなくなってからもねぇ、私は時々、姉ちゃんがそばにいるように感じることがあったんだよ。」


 蓮が千鶴を見る。


「感じる?」


「そう。」


 千鶴は、ゆっくりと頷いた。


「声が聞こえるというのとは、少し違うんだよ。」


 千鶴は、自分の胸元に手を置いた。


「未だに姉ちゃんが何を思っているのか、分かることがあるんだ。」


 紬の目が揺れた。


「亡くなった後も……?」


「うん。」


 千鶴は、穏やかに笑った。


「ずっとではないよ。私が呼べば、いつでも返事をするというわけでもないんだ。」


 それは、生前の千歳の力とは違っていた。人の強い感情を受け取る力。千鶴だけが千歳の心を感じ取る力。それが、死を境に消えたのか、形を変えたのか。千鶴自身にも分からなかった。ただ、時々胸の奥に、千歳の気配を感じることがあった。そして、千鶴には千歳が、何かを待っている時、何かを伝えたい時がわかった。


「だから。」


 千鶴は、蓮と紬と美和を順番に見た。


「今まで、姉ちゃんの話をしなかったんだよ。」


 蓮が眉を寄せる。


「話さなかった?」


「うん。」


 千鶴は、静かに頷いた。


「話そうと思えば、もっと早く話せたんだろうけれども。」


 千鶴は、少しだけ苦笑した。


「でも、姉ちゃんがまだ話す時ではないと言っていたんだよ。」


 店内の空気が変わった。蓮が息を呑む。


「……千歳さんが?」


「うん。」


 千鶴は、当たり前のことのように言った。


「あなたが来て、紬さんがいて、美和さんもいて。」


 千鶴は、三人を見た。


「三人が揃うまで、待っていたんだ。」


 紬の胸が、強く締めつけられた。千歳は、昔も待っていた。茂が戻ってくることを。そして今も。千歳は、三人が揃うのを待っていた。蓮は、写真を見つめた。


「どうして……俺たちを?」


「それは、まだ私にも分からないんだよ。」


 千鶴は、少し困ったように笑った。


「でもねぇ、姉ちゃんがそう言うんだから、何か理由があるんだろうね。」


 その時だった。ククノチの奥から、かすかな音がした。何かが触れたような、ほんの小さな音。紬が振り返る。けれど、そこには誰もいない。窓の外では、夕方の風にトケイソウの葉が揺れていた。千鶴は、ふとその方を見た。そして、少しだけ微笑んだ。


「……そうかい。」


 誰に向けた言葉なのか、誰にも分からなかった。蓮が千鶴を見る。


「千鶴さん?」


 千鶴は、ゆっくりと首を振った。


「ううん。」


 そして、写真の中の千歳に視線を戻した。


「姉ちゃんがねぇ、もう少し待っていてくれって。」


 蓮の表情が変わった。紬も、美和も黙っている。千鶴は、穏やかな顔で続けた。


「話すことがあるんだって。」


 夕暮れの光が、写真の中の千歳の顔を照らしていた。その表情は、穏やかだった。まるで、ずっと昔から知っていたように。茂が戻ってくることを待っていたように。そして今もまた。誰かがここへ辿り着くのを、静かに待っているように。千鶴は写真をそっと伏せた。けれど、その指先は、写真から離れなかった。


 

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