祖母の過去(前編)
千鶴が「私の甥なのよ。」と言ったあと、しばらく誰も言葉を発しなかった。
ククノチの店内には、夕方の光が残っていた。窓から差し込んだ光が、テーブルの上に置かれた古い写真の端を照らしている。
写真の中には、若い男女が立っていた。その背後には、古びた石碑。そこに刻まれた文字は、今も変わらない。――ククノチ。蓮は、写真から顔を上げた。
「……甥、なんですか?」
「そうなの。」
千鶴は静かに頷いた。
「神主さんが?」
「うん。あそこが、私の実家なんだよ。」
紬が目を丸くした。
「じゃあ、千鶴さんはあの神社の……。」
「そう。あの神社で育ったんだよ。」
千鶴はそう言って、写真を見下ろした。写真の中の女性は、千鶴によく似ている。けれど、千鶴ではないことは明らかだった。
「この人は……おばあちゃんじゃないよね?」
紬が小さく呟く。千鶴は、写真の中の女性を見たまま答えた。
「私じゃない。この子はね、私の姉なの。」
蓮の指が、写真の端でわずかに止まった。
「お姉さん……」
「そっくりでしょう? 双子の姉なんだよ。」
千鶴は、少しだけ笑った。
「千歳っていうの。もう、随分前に亡くなっているけどね。」
その名前が、静かに店内へ落ちた。蓮は、写真の中の女性を見た。ーー若い。穏やかな表情をしている。その隣に立っている祖父は、蓮が知っているそれとは、まるで違う表情をしていた。
もっと若く、少し頼りなげで、それでもどこか静かな目をしている。
「この写真……」
蓮は、もう一度写真を見た。
「祖父と、千歳さんは知り合いだったんですね。」
「前に同じことを聞いてくれたね。今なら話せるよ。2人はとても仲が良かったんだ。」
千鶴は、写真から視線を上げた。
「茂さんが常盤木町に来たのは、もうずいぶん昔のことだけどねぇ。」
千鶴は、テーブルの向かいに腰を下ろした。美和も少し離れた席に座る。紬は蓮の隣にいた。
蓮は、写真を千鶴の方へ戻しながら、まだ千歳の顔を見ていた。千鶴が話してくれる言葉を待っている。
「茂さんはね、常盤木町で迷子になったんだよ。」
「迷子?」
蓮が思わず聞き返す。千鶴は、ふっと笑った。
「そう。茂さんの若い頃は見た目があなたにそっくりね。だけど、今のあなたを見ていると、あまり想像できないかもしれないけどねぇ。」
「俺ですか?」
「うん。あなたはちゃんと道を調べるでしょう」
紬が吹き出した。
「確かに。」
「紬さんまで。」
「だって、蓮はちゃんとしてそうだから。」
「ちゃんとしてそう、じゃなくて、ちゃんとしてるんです。」
蓮が少し得意そうに言う。紬は、また笑った。千鶴も、その二人を見て笑う。
「茂さんも、若かったからねえ。」
千鶴は、写真を指でそっと撫でた。
「道に迷って、神社まで来たんだよ。だけどもね、私はそれを楽しんでいるように見えたけどね。」
「そこで、千歳さんと?」
「そう。」
千鶴は、少し遠くを見るように目を細めた。
「姉ちゃんは、生まれつき身体が弱くてね。外へ出るのがあまりできなかったんだよ。」
紬の表情が変わった。
「外出できないほどだったんですか?」
「うん」
千鶴は頷いた。
「生まれつき、あまり丈夫ではなくてねぇ。長いこと歩いたり、遠くへ出かけたりするのは難しかったんだよ。」
千鶴の声は淡々としていた。
「でもね、姉ちゃんは外の世界が嫌いだったわけじゃないんだよ。」
千鶴は笑った。
「むしろ、好きだったんだ。だけど、外に出られないのは、身体のことだけじゃなかった。」
行けないからこそ、知らない場所の話を聞くのが好きだった。山の向こうにある町。海を越えた先の土地。遠い寺。見たことのない景色。千歳は、そういうものを知りたがった。ただ、千歳には、幼い頃からもう一つ、抱えているものがあった。千鶴は、写真から目を離さずに言った。
「姉ちゃんはね、人の気持ちを拾いすぎる子だったんだよ。」
蓮が顔を上げた。
「拾う?」
「そう」
千鶴は少し考えた。
「人が心の中に持っているものがね、姉ちゃんの中に入ってきてしまうんだよ。」
紬の指が、膝の上でわずかに動いた。
「……人の心が、分かるということですか?」
「分かる、だけならまだよかったんだけどねぇ。」
千鶴は、ゆっくり首を横に振った。
「強い感情は、まともに受けてしまうんだよ。」
店内が静かになった。
「怒りとか、悲しみとか、憎しみとか。そういうものが強い人に会うと、姉ちゃんまで苦しくなってしまうの。」
千鶴の声が少し低くなる。
「その人の気持ちが分かるだけではないんだよ。まるで、自分がその人になったみたいになることもあった。」
蓮は、黙って聞いていた。
「だから、寝込むこともあったねぇ。」
紬が息を止める。
「そんなに……。」
「うん。」
千鶴は頷いた。
「神社には、いろんな願いを持った人が来るからね。うちは子供の頃から家業を手伝うことになっていてね。」
嬉しい顔で来る人もいる。悲しみを抱えたまま来る人もいる。怒りをどうにもできずに来る人もいる。千歳は、そういうものを感じ取ってしまった。
そして、強い感情に触れた日は、役目が終わってから、何もできなくなった。布団に横になり、千鶴がそばに座る。
『今日は、誰かの悲しい気持ちを受け取ったのね。』
千鶴がそう言うと、千歳は目を閉じたまま頷く。言葉にできない時もあった。けれど、千鶴には分かった。千歳が今、どんな感情に触れたのか。どれほど苦しんでいるのか。千歳の心だけは、千鶴には分かった。
「私にはね、姉ちゃんのことが分かったんだよ。」
千鶴は、自分の胸元に手を置いた。
「誰の心でも分かるわけではないんだよ。姉ちゃんの心だけ。」
「双子だから……?」
蓮が尋ねる。
「そうかもしれないし、違うかもしれないねぇ。」
千鶴は、少し笑った。
「私たちにも、よく分からなかったんだよ。だけど、あの家に生まれた子はそう言う役目を持っていることが多かった。私はそれが、姉ちゃんに限定されていたんだ。」
千歳が誰かの強い感情を受け取った時。千鶴には、それが分かった。千歳が怖がっている時。悲しんでいる時。逆に、心から嬉しい時。それも分かった。
「姉ちゃんが何を言いたいのか、言葉にする前から分かったんだよ。」
千鶴は、写真の中の千歳を見た。
「だから、姉ちゃんが話せない時は、私が代わりに話したんだ。」
「千歳さんの代わりに?」
「うん。私は姉の声をしていた。」
千鶴は頷いた。
「姉ちゃんが聞きたいことを、私が聞く。姉ちゃんが伝えたいことを、私が伝える。」
千鶴は、千歳の声だった。少なくとも、幼い頃の二人にとっては、それが当たり前だった。
「私が姉ちゃんの代わりに神社の勤めをすることもあったしねぇ。」
千鶴は、少し肩をすくめた。
「姉ちゃんができないことを、私がする。」
紬は、その言葉を聞きながら、千鶴の顔を見ていた。千鶴は、姉を守るために動いていた。けれど、そのことを自分の犠牲として語ってはいない。それが、二人にとって自然だったのだろう。
「そんな姉ちゃんの前に、茂さんが来たんだよ」
千鶴は、写真の中の茂に視線を移した。
「茂さんは、岡山の寺の跡取りだったんだ」
蓮は少し驚いた。写真から判断するに、祖父が常盤木町を訪れたのは10代のころのはずだ。
「祖父は、若い頃から寺を継ぐことが決まっていたんですか?」
「そうだったんだろうねぇ。」
千鶴は頷いた。
「寺で育って、仏さまの教えを聞いて、いろんなことを学んでいたんだと思うよ。」
茂は、いろいろな寺を訪れていた。山の上の寺。海のそばの寺。雪深い土地の寺。古い仏像が残る寺。そこで見たものを、茂は千歳に話した。
「姉ちゃんは、茂さんの話を聞くのが好きだったんだよ」
千鶴は、少し笑った。
「外へ行けなかったからねぇ」
茂が話す。千歳が聞く。その声を、千鶴が隣で聞いている。千歳は、茂の言葉から景色を想像した。遠い山。寺の屋根。雨に濡れた石段。の霧。茂が見てきた世界が、千歳の中に広がっていく。けれど、千歳が茂の話を聞くのが好きだった理由は、それだけではなかった。
「茂さんの心はね。いつも、静かだったんだよ」
「……静か?」
「うん」
千鶴は、言葉を探した。
「何も考えていない、という意味ではないんだよ」
茂にも感情はあった。道に迷えば困る。知らない場所に来れば戸惑う。寺の跡取りとしての責任もある。 若者らしい好奇心もある。千歳に親しみを感じる気持ちもある。けれど、それらが茂の心を大きく乱すことはなかった。
「茂さんは、嬉しい時は嬉しい。悲しい時は悲しい。でもねぇ、その気持ちにずっとつかまってはいなかったんだよ」
千鶴は、ゆっくりと言った。
「波が立っても、すぐに静かになるんだ」
寺で育った茂にとって、それは特別な修行の成果というより、幼い頃から身についた心のあり方だったのかもしれない。感情をなくすのではない。感情に呑まれない。執着しすぎない。起きたものを受け止め、やがて手放す。 そういう教えの中で育った茂の心は、いつも静かだった。
「姉ちゃんはね、茂さんのそばにいると楽そうだったんだよ」
千鶴は言った。その声には、確かな記憶があった。
「茂さんの心には、姉ちゃんを苦しめるような強い波がなかったんだろうねぇ」
千歳は、他人の感情を受け取ってしまう。けれど、茂の心は凪いでいた。だから千歳は、茂のそばにいると、何も防がなくてよかった。誰かの怒りを受け取ることもない。誰かの深い悲しみに引きずり込まれることもない。ただ、そこにいることができた。
「茂さんの話を聞いている時の姉ちゃんはね。本当に楽しそうだったんだよ」
蓮は写真の中の祖父を見つめた。
「祖父は……そんな人だったんですね。」
「そうだったよ。」
千鶴は頷いた。
「少なくとも、私たちが知っている茂さんはねぇ」
その言葉に、蓮は少し黙った。自分が知っている祖父と、千鶴の記憶の中にいる祖父。どちらも本当の祖父なのだろう。ただ、蓮は祖父の過去の人間関係を知らなかった。祖父の話を楽しみにしていた友人がいたことも。
「姉ちゃんは、茂さんが来るのを楽しみにしていたよ。茂さんが来る日だけは、朝から機嫌がよくてねぇ。」
紬が微笑んだ。
「分かりやすいですね。」
「そりゃあ、もう。」
千鶴は笑った。
「何でもない顔をしようとするんだけどねぇ。」
「けど?」
「心の中では、もう楽しみで仕方がないんだよ。」
千鶴は、写真の中の千歳を見た。その目には、懐かしさが浮かんでいた。
「姉ちゃんは、茂さんといる時だけは、心が静かだったんだよ。」
その言葉に、蓮は顔を上げた。
「……静かに?」
「うん。」
千鶴は頷いた。
「荒々しい人の心を受け取らなくてよかったからねぇ。」
それは、千歳にとって大きな意味を持っていた。強い力を持つ者にとって、力を使わずにいられる時間は、何よりも貴重だった。茂は、千歳の力を知らなかったかもしれない。あるいは、知っていたのかもしれない。けれど、少なくとも茂は、千歳を恐れなかった。特別なものとして扱いすぎなかった。ただ、千歳の前に座り、自分が見てきた世界の話をした。それだけだった。
「茂さんが常盤木町を出る時ねえ、また来るって言ったんだよ。」
「祖父が?」
「うん。」
千鶴は頷いた。
「また必ず会いに来るって。」
蓮は写真を見つめた。千歳の隣に立つ、若い祖父。背後にある石碑。そこに刻まれた、ククノチの文字。祖父は、本当に戻ってくるつもりだったのだろうか。蓮は、そう思った。千歳は、きっと待っていた。茂の心が静かだったから。茂のそばにいると、何も恐れなくてよかったから。そして、もう一度、茂の話を聞きたかったから。千鶴は、写真の中の千歳を見つめた。それから、誰に向けるでもなく、ぽつりと言った。
「……姉ちゃんは、待っていたんだよ。」
夕方の光が、写真の上からゆっくりと退いていく。千鶴は、しばらく黙っていた。そして、少しだけ目を伏せる。
「茂さんが帰ってから、いろんなことがあったんだよ。」
その声には、先ほどまでの懐かしさとは違うものが混じっていた。蓮も、紬も、美和も、静かに千鶴を見ていた。千鶴は、写真の中の千歳を見つめたまま、続きを話すことなく口を閉じた。夕方のククノチに、外の風がかすかに入り込む。千歳と茂の物語は、まだ始まったばかりだった。




