パニーニと帰りたい場所(後編)
翌日。
蓮は、仕事を終えると、そのまま常盤木神社へ向かった。車を降りると、山から吹き下ろしてくる風が、シャツの裾を軽く揺らした。前に紬と来た時よりも、境内は静かに感じられた。あの時は、隣に紬がいた。歩きながら、道端の植物に目を留めたり、木々の間から差し込む光を眺めたりしていた。同じ場所を通ると、その時の紬の姿が浮かんできて、ふと表情が緩む。
「……不思議じゃな。」
小さく呟き、蓮は苦笑した。昨日、紬に「帰ってきたら教えてね」と言われた。だから、今日はできるだけ何かを見つけたかった。祖父の写真に写っていた場所が本当にこの神社なのか。写真の背後にあった石碑は何なのか。そして、祖父はなぜ、約束を果たせなかったのか。蓮は、鞄の中に入れた封筒を確認した。
そこには、祖父の遺品から見つかった古い写真が何枚か入っている。中でも、一枚。何度見ても気になる写真があった。若い頃の祖父と、ひとりの女性が写っている。二人の後ろには、古い石碑があった。そこに刻まれた文字は――ククノチ。蓮は、境内を歩きながら、社務所の方へ向かった。その時だった。
「……あれ?」
声がして、蓮は足を止めた。社務所の方から、ひとりの男性がこちらへ歩いてくる。神職の装束を身につけた男性だった。蓮の姿を認めると、少し驚いたように目を見開く。そして、向こうから近づいてきた。
「高校の先生ですよね? この前も来ておられた。」
「ええ、はい。藤代と申します。」
蓮は頭を下げた。
「そうですよね」
神主は、蓮の顔を確認するように見た。それから、蓮の後ろへ視線を向ける。今日は誰もいない。
「今日はおひとりですか?」
「はい。」
「そうですか。」
神主は、短く答えた。その声には、何かを確かめるような響きがあった。
「実は、今日は少し調べたいことがありまして。」
蓮は、鞄から封筒を取り出した。
「祖父の遺品から、こちらの神社と思われる場所が写った写真が見つかったんです。」
「写真……。」
「はい。」
蓮は封筒から写真を取り出した。神主は、最初は何気なく覗き込んだ。しかし。次の瞬間。その表情が変わった。ほんの一瞬だった。その変化を、蓮は見逃さなかった。
「……!」
神主の視線が、写真の中の石碑に釘付けになる。蓮は写真を持ったまま、神主の顔を見た。
「何か、ご存じですか?」
神主は答えなかった。写真を見ている。正確には、写真の中にある石碑を見ていた。そこには、古い文字でこう刻まれている。――ククノチ。やがて神主は、写真の中の男性へ視線を移した。
「この方は……?」
「僕の祖父です。」
「お名前は?」
蓮は、少しだけ身構えた。
「藤代茂といいます。故人ですが……。」
その名前を聞いた瞬間だった。神主の顔に、またわずかな変化があった。
「藤代……茂……。」
低く呟く。そして、何かを思い出そうとするように、視線を遠くへ向けた。
「すると、この方があの、岡山の……?」
「……え?」
蓮の声が低くなる。神主は、はっとしたように口を閉じた。
「今、岡山と言いましたか?」
「……」
「祖父のことをご存じなんですか?」
蓮は一歩、神主との距離を詰めた。神主は、すぐには答えなかった。写真の中の祖父。その隣に立つ女性。そして、二人の背後にある石碑。蓮は、写真を持つ手に力を込めた。
「この写真のことを何か知っているんですか?」
「……。」
「祖父がここに来たことを?」
神主は言葉を選んでいる様子で、ゆっくりと口を開いた。
「……少し、込み入った話になります。」
神主は、静かにそう言った。
「込み入った話?」
「ここで簡単にお話しできることではありません」
蓮は眉を寄せた。
「祖父のことを知っているんですよね?」
神主は、否定しなかった。その沈黙が、かえって答えのように思えた。
「この女性についても、何かご存じですか?」
蓮は、写真の中の女性を指した。若い女性だった。どこか千鶴に似ている。けれど、千鶴とは違う。蓮はまだ、その女性が千鶴の双子の姉だとは知らない。ただ、祖父がこの女性と一緒に写っていることだけは分かっている。
神主は、その女性を見た。その顔に、一瞬だけ複雑な色が浮かぶ。しかし、やはり何も答えなかった。
「……後日、改めて伺って良いですか。」
「後日?」
「はい。」
「なぜ、今日ではいけないんですか?」
蓮の声に、少し苛立ちが混じった。ここまで来た。祖父の名前を知っている人物が目の前にいる。それなのに、何も聞けない。そんなことを簡単に受け入れられるほど、蓮は冷静ではなかった。
「私も、すべてを存じ上げているわけではなく、確認したいことがあります。」
神主は、静かに答えた。
「記憶だけでお話しするには、少し古い話です。」
「……。」
「調べておきます。」
その言葉に、蓮は黙った。神主は、何かを知っている。しかし、今ここで話すことはできないらしい。それだけは分かった。
「……わかりました。」
蓮が言うと、神主は頷いた。
「お待ちください。」
蓮は写真を封筒へ戻した。けれど、石碑に刻まれた文字が、頭から離れなかった。ククノチ。祖父。そして、この神社。蓮は社務所を出た。境内へ戻ると、木々の葉が風に揺れていた。陽の光が、葉の隙間から地面へ落ちている。
前に紬と歩いた時、彼女はこの場所で、何を感じていたのだろう。そんなことを思った。今度は一緒に来てもいいかもしれない。けれど、その前に。今日聞いたことを、まず紬に話したかった。昨日の約束を思い出す。帰ってきたら、また教えてね。蓮は、静かに息を吐いた。そして、神社を後にした。
ククノチの扉を開けると、ドアベルが鳴った。
「おかえり。」
紬が顔を上げた。その声を聞いた瞬間、蓮の中に残っていた緊張が、少しだけほどけた。
「ただいま。」
自然に返す。紬は、ほんの少し嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、蓮も笑う。
「どうだった?」
紬が尋ねる。蓮は、カウンターの前の椅子を引いた。昨日と同じ場所に腰を下ろす。紬も、自然にその向かいへ来た。昨日の夕方と同じ場所。けれど、今日の蓮は、昨日とは違うものを見てきた。
「神主さんに会った。」
「うん。」
「向こうから声をかけてきたんよ。この前も来てましたよねって。」
「覚えてたんだ。」
「うん。」
蓮は、写真を取り出した。紬は、写真を覗き込む。
「この場所、やっぱり神社だったんだ。ね」
「うん。間違いなさそうじゃった。」
蓮は写真を見つめた。
「それでな。」
紬は、蓮の表情を見た。何かあったのだと分かる。蓮がこういう顔をしている時は、まだ話が終わっていない。
「この写真の後ろにある石碑を見て、神主さんが急に反応したんよ。」
「石碑? それで?」
「神主さんが、祖父の名前を聞いてきた」
紬は顔を上げた。
「名前を?」
「うん」
蓮は、写真を見ながら続けた。
「藤代茂ですって答えたら……。」
そこで、少し間を置く。
「『藤代……茂……岡山の……』って」
「……。」
紬は黙った。
「知ってるってこと?」
「たぶん。」
蓮は、写真の端を指でなぞった。
「俺が問い詰めたら、後日また伺いますって言われた。」
「後日?」
「昔のことで、込み入った話になるから、調べておくって。」
紬は、蓮の顔を見た。祖父のことを知っているかもしれない人が、目の前にいる。なのに、今はまだ何も分からない。そのもどかしさが、蓮の表情から伝わってきた。
「でも、何か知ってるんだね。」
「おん。」
蓮は、短く答えた。そして、少し黙った。
「それから」
「うん?」
「写真の女性のことも聞いた。」
紬は写真を見る。そこに写っている若い女性。千鶴によく似ているが、違う人だと言う。けれど、紬はまだその人が誰なのか知らない。
「その人のことも?」
「うん。でも、そこは何も言わなかった。」
「そっか……。」
紬は写真を見つめた。写真の中の女性は、どこか遠くを見ていた。その隣に、若い蓮の祖父が立っている。二人の背後に、ククノチと刻まれた石碑。その光景が、何十年もの時間を越えて、今ここに戻ってきている。
「……蓮。」
「ん?」
「これ、きっと大事な写真なんだね。」
蓮は、紬を見た。
「だろうな。」
その声は、静かだった。
「俺も、そう思う。」
その時だった。奥で、食器を片付けていた千鶴の手が止まった。紬は気づかなかった。蓮も、気づかなかった。千鶴だけが、写真に写る女性の姿を見つめていた。やがて、千鶴はゆっくりと顔を上げた。
「……神主さんの名前は聞いたかい?」
蓮が振り返る。
「え?」
「その神主さんの名前よ。」
蓮は答えた。その名前を聞いた瞬間。千鶴の表情が、わずかに変わった。蓮は、その変化を見逃さなかった。
「常盤さん言うとりました。……知っとるんですか?」
千鶴は、すぐには答えなかった。写真の中の女性を見る。そして、その隣に立つ男。何十年も前に、もう二度と会うことはないと思っていた人。千鶴は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そう。」
紬が振り返る。
「おばあちゃん?」
千鶴は、蓮を見る。それから、静かに言った。
「あの子に会ったのね。」
「あの子?」
蓮が聞き返す。千鶴は、ほんの少しだけ目を細めた。
「あの子はね、私の甥なの。」
店内の空気が止まった。紬は、目を瞬いた。蓮も、言葉を失っていた。千鶴は、写真の中の少女を見つめた。その視線の先に、遠い過去がある。けれど、その過去はもう、蓮の祖父の写真の中だけに眠っているものではなかった。
今、蓮がそこへ行った。そして、甥に会った。千鶴は、静かに目を伏せた。ククノチの店内に、夕方の光が差し込んでいた。その光の中で、蓮と紬はただ千鶴を見つめていた。
まだ、誰も何も尋ねられなかった。ただ一つ。蓮が訪れた神社と、千鶴の過去が、確かにつながっていた。そのことだけが、三人の間に静かに残っていた。




