パニーニと帰りたい場所(前編)
夕方のククノチには、昼間とは違う静けさがあった。
窓から差し込む西日が、木の床の上に細長い光を落としている。昼間は何人もの客が行き交っていた店内も、閉店時間が近づくにつれて、少しずつ音を失っていた。
紬は、空になったトレーを重ねながら、窓の外を見た。山の向こうへ沈みかけた太陽が、町の屋根を橙色に染めている。もうすぐ今日の営業も終わる。そう思った時だった。店の扉が開いた。ドアベルが、夕方の店内に小さく響く。
「いらっしゃいませ――」
いつものように声をかけかけて、紬は途中で口を閉じた。
「お疲れさま。」
蓮だった。学校からそのまま来たのだろう。シャツの袖は肘のあたりまでまくられていて、肩には鞄を掛けていた。普段、学校で生徒たちの前に立っている時とは少し違っていた。疲れているのだろう。それでも、店に入って最初に紬を見つけると、ふっと表情が緩んだ。
その変化を見てしまった紬の胸が、わずかに跳ねる。自分の前でだけ見せてくれる表情なのだろうか。
そんなことを考えてしまう自分に、紬は少しだけ戸惑った。
「ただいま。」
蓮は少しだけ疲れた笑顔を返す。店内を見渡してから、いつものようにカウンターの端へ鞄を置いた。いつの間にか、そこが蓮の定位置になっている。蓮はカウンターの椅子を引きながら、少し考えるように首を傾けた。
「仕事が終わって、必ず来る場所になりつつあるな。」
何でもないように言って、椅子に腰を下ろす。紬は、しばらく何も言えなかった。仕事が終わったら、ここに来る。自分のところへ。それは、恋人になった今、習慣となっていた。蓮が仕事を終え、学校を出て、ここへ来る。その時間の先に、自分がいる。そう考えると、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「……もはや家に帰ってきている気分?」
紬が尋ねると、蓮は顔を上げた。
「もちろん」
「蓮『ただいま』っていってるもんね?」
ようやく今の距離感になれ、ついにお互いのことは名前で呼び合うようになった。
「そら言うじゃろ。」
「毎回?」
「毎回は……どうかな。」
蓮は真面目な顔で考え始めた。紬は思わず笑った。
「そこ、真剣に考えるところ?」
「大事なことじゃろ。」
「何が?」
「ただいまを言う頻度は。他のお客さんおるときはさすがになあ。」
「そんなの気分でいいよ。」
「じゃあ、気分による。」
「何それ。」
紬が笑う。蓮も笑った。その笑い声に、店の奥からキーボードを打つ音が止まった。
「相変わらず仲がいいわね。」
美和がパソコンの画面から顔を上げていた。
「えっ。」
紬の顔が一気に熱くなる。
「いや、そういうんじゃなくて!」
「どういうの?」
蓮が、わざとらしく紬を見る。
「蓮!」
睨むと、蓮は肩を揺らして笑った。美和はそんな二人を見て、何も言わずに再び画面へ視線を戻した。けれど、紬にはその口元がわずかに緩んでいたように見えた。
「今日、学校どうだったの?」
紬は話題を変えるように尋ねた。蓮はカウンターに肘をつき、少しだけ背中を丸めた。今日はコーヒーとパニーニを選んでいる。教室では、生徒たちの前に立っている。授業をして、話を聞いて、注意をして。けれど今は、仕事を終えた一人の男性として、紬の前に座っている。そのことが、妙に嬉しかった。
「まあ、いつも通りじゃな。」
「蓮のいつも通りは、普通じゃないからなあ。」
「何で?」
「この前も生徒さんたちに囲まれてたし。自分が人気者の自覚ない人だー。」
「ああ……。」
蓮は思い出したように苦笑した。
「今日は何人かに言われたな。」
「何を?」
「最近、機嫌がいいですねって」
紬は目を瞬いた。
「えっ。」
「何でじゃろうな?」
蓮は本当に分からないという顔をしていた。その顔が可笑しくて、紬は笑いそうになる。
「それは……」
紬はわざと考え込むふりをした。
「私と仲良くできてるからじゃない?」
冗談だった。蓮が笑って、「そうかもしれんな」と返してくるくらいだと思っていた。けれど。
「……そうかもしれんな。満たされとるのかもな。」
蓮は、少しだけ視線を落としてから言った。
「えっ。」
今度は紬が固まる番だった。蓮は不思議そうに紬を見る。
「何?」
「いや……。」
「何か変なこと言ったか?」
「言った。」
「どこが?」
「そういう恥ずかしいことを、普通に言うところ。」
蓮は少し考えた。それから、何でもないことのように言った。
「本当のことじゃろ。」
紬は、返す言葉を失った。蓮は、こういうところがある。きっと無自覚な人たらしなのだ。普段は穏やかで、どちらかといえば控えめなのに、時々、こちらが身構えていないところへ、何でもない顔で踏み込んでくる。しかも本人には、相手を動揺させている自覚がない。ずるい。
「……たまにすごいよね。」
「何が?」
「何でもない。」
「またそれか。」
蓮が笑った。紬も笑う。窓の外では、夕暮れが少しずつ濃くなっていた。店内に残る光も、先ほどより柔らかい。美和は再び執筆に戻っている。キーボードを打つ音と、時折聞こえる食器の触れ合う音。その中に、二人の会話が混ざっている。そんな時間が、紬には心地よかった。
毎日特別なことが起きるわけではない。こうして仕事帰りに蓮が来て、くだらない話をして、笑う。それだけなのに、以前とは何かが違う。紬は、蓮がカウンターに置いた鞄を見た。きっと、家に帰る前に学校からここへ来てくれた。その事実を、今さらながら実感する。
「そういえば」
蓮が窓の外を見ながら言った。
「明日、もう一回神社に行こうと思っとる。」
紬は、手にしていた布巾を止めた。
「また?」
「うん。」
蓮の声から、さっきまでの軽さが少し消えた。
「写真のこと、もう少し確認したいんよ。」
紬は蓮の横顔を見た。その表情は、少し前まで冗談を言って笑っていた人のものとは違っていた。真剣で、静かで。何かを知りたいという気持ちが、目の奥に宿っている。紬は、蓮がこういう顔をするのが好きだった。誰かに頼まれたからでもなく、褒められるためでもなく。ただ、自分が知りたいと思ったことに向かっていく顔。
「今度は一人で行くの?」
「そのつもり。」
「私がいたら邪魔?」
「いや、そういう意味じゃない。」
蓮はすぐに首を振った。その反応が早すぎて、紬は思わず笑った。
「そんなに慌てなくても。」
「いや、誤解されたくない。」
「何を?」
「紬がおったら邪魔だなんて、思ってない。だけど、ちょっと集中して調べたくてな。紬がおると……構いたくなってしまう。」
まただ。蓮は、こういうことを自然に言う。紬は、返事をする前に一度目を逸らした。
「……そっか。」
「うん。」
蓮は、少しだけ目を細めた。
「紬さんがおったら、たぶん楽しいけどな」
「たぶん?」
紬が振り返る。蓮は一瞬、しまったという顔をした。
「いや、絶対」
「最初からそう言えばいいのに」
「いや、最初の『たぶん』は……」
「言い訳はいいです」
「急に昔の距離感に戻ったな。」
「誰のせい?」
「俺?」
「蓮のせい!」
二人は顔を見合わせて笑った。その笑いが収まったあと、蓮はもう一度、写真の入った鞄へ目を向けた。紬はその横顔を見た。この人にとって、祖父のことを知るのはきっと簡単なことではない。知らなかった過去を、今になって一つずつ拾い集めている。それがどんな答えにつながるのか、紬にはまだ分からない。けれど。
「帰ってきたら、また教えてね。」
紬は、自然にそう言っていた。蓮がこちらを見る。
「うん。」
少しだけ間があった。
「帰ってきたら、ちゃんと話すから。」
その言葉が、紬の胸に静かに落ちた。帰ってきたら。蓮が神社へ行って、またここへ戻ってくる。たったそれだけのことなのに、紬には嬉しかった。
「……じゃあ、頑張ってね。」
「おん。」
蓮は笑った。夕暮れの光が、彼の横顔を照らしていた。紬は、ふと海へ行った日のことを思い出した。あの日も、隣にいる蓮の横顔を見て、かっこいいと思った。今も思う。近くなった分だけ、蓮の仕草や表情を意識するようになってしまった。疲れている時に少しだけ目を細めること。話を聞く時、きちんと相手の目を見ること。笑う時、少しだけ肩の力が抜けること。そんなことまで、以前よりよく見える。
「……紬?」
「え?」
「何か考えとった?」
紬は慌てて首を振った。
「ううん」
「そうか?」
「うん。」
少しだけ迷ってから、紬は笑った。
「蓮は、ここに帰ってくるって言ってくれるんだなって思ってたの。」
「俺が?」
「うん。仕事帰りにここに来てくれてるから。」
蓮は一瞬、何かを考えるように黙った。それから、穏やかに笑った。
「来たかったから来ただけじゃ。」
紬の胸が、また小さく跳ねた。蓮にとっては、きっと本当にそれだけなのだろう。仕事が終わった。そして、来たかったから来た。けれど紬にとって、その「それだけ」は、いつまでも胸の中に残った。
特別な約束をしなくても、会いたいと思った人のところへ行く。そんな当たり前のことが、紬にはまだ少し眩しかった。蓮は、そんな紬の胸の内を知らないまま、いつものように笑っている。その無自覚さに、紬は少しだけ困りながら、やっぱり嬉しくなった。
店の外では、夕暮れが夜へ変わり始めていた。




