木漏れ日とチョコレートバブカ(後編)
神社から戻った頃には、午後の光が少し傾き始めていた。ククノチの扉を開けると、店内には焼きたてのパンの香りが残っていた。
「ただいま」
紬が言うと、奥から美和が顔を上げた。
「おかえりなさい」
「お母さん、ずっとここにいたの?」
「ええ。少し書いていたから」
美和の前には、いつものようにノートパソコンが置かれていた。その隣には、今日のおすすめパン、チョコレートバブカと空になったコーヒーカップ。紬はそれを見て、少し笑った。
「またチョコバブカとコーヒー飲んだんだ」
「仕事をしていると、飲みたくなるのよ」
「飲みすぎじゃない?」
「あなたに言われたくないわ」
「私、そんなに飲んでないよ」
「そう?」
「そうだよ」
そんなやり取りをしていると、蓮が後ろから店に入ってきた。神社からそのまま帰る予定だったが、写真の整理をするためにククノチへ寄ることにしたのだ。蓮は鞄から写真を取り出し、カウンターの端に置いた。
「少し、ここで確認してもええですか?」
紬がすぐに振り返った。
「あはは」
「え?」
「また変な敬語で照代」
蓮が一瞬、固まる。
「いや、これは……」
「今日はもう、仕事じゃないよ?」
「そうは言うても、お母さんがおるからじゃな…。」
「お母さんがいたら先生に戻るの?」
「いや、そういうわけじゃ……。」
蓮は美和を見た。
「……お邪魔しても大丈夫ですか?」
美和は笑いをこらえるように、口元に手を当てた。
「そんなに気を遣わなくても大丈夫よ。」
「ありがとうございます。」
「今度は岡山敬語になってる。」
「いや、もう癖なんじゃろうな。もう、どうしたらええん。」
「私にもわからないよ。」
二人のやり取りを見て、美和は小さく笑った。蓮は写真をテーブルに広げる。紬も隣に座った。写真の中に写る、古い石碑。その文字を拡大してみる。
「やっぱり、これだけじゃ読めんか。」
蓮が呟く。
「でも、何か書いてあるのは分かるね。」
紬が画面を覗き込む。
「うん。石碑の形も、普通の記念碑とはちょっと違う気がする。」
「そうなの?」
「たぶん。こういうものは、何かを祀っとる場合もあるしじゃな。」
蓮は、調べた資料をいくつか開いた。紬はその横顔を見ていた。神社にいた時と同じ、真剣な顔。写真を見て、資料を読み、時々考え込む。紬はまた、胸の奥がくすぐったくなった。
「……何?」
蓮が顔を上げる。
「え?」
「また見とる」
「見てない。」
「見とった。」
「見てないってば。」
「紬さんはワシが好きじゃなあ。」
蓮が笑う。紬は頬を膨らませた。その時、美和が静かに口を開いた。
「紬?」
「なに?」
「少し、話したいことがあるの。」
声の調子が、いつもと違った。紬は、美和の顔を見た。蓮も、写真から視線を上げる。
「……うん?」
美和は、少しだけ迷うように二人を見た。
「蓮くんにも、聞いていてほしい。」
紬は驚いた。
「蓮さんも?」
「ええ」
美和は蓮を見る。
「あなたの大切な人なんでしょう。」
紬の顔が、少し赤くなった。
「お母さん……。」
蓮も、少し戸惑ったように目を瞬かせた。
「僕が……聞いてもええんでしょうか。」
「ええ。」
美和は静かに頷いた。
「聞いていてほしいの。」
蓮は、しばらく黙っていた。それから、紬を見た。紬は何も言わなかった。ただ、少しだけ不安そうな顔をしている。蓮はその表情を見て、ゆっくり頷いた。
「……はい。」
「紬と私のことを、少し話したいの。」
店内が静かになった。窓の外では、夕方の風が木々を揺らしている。美和は、手元のコーヒーカップに視線を落とした。
「あなたが小さい頃のこと。」
紬は、黙って母を見た。
「覚えていることもあると思うけれど、覚えていないことも多いと思う。」
「うん。」
「あなたは昔から、人のことをよく見ていたわ。」
紬は、少しだけ眉を寄せた。
「そう?」
「ええ。」
美和は、遠い記憶を探すように話し始めた。
「誰かが泣いていたら、その人のところへ行く。誰かが困っていたら、何も言わずにそばにいる。」
「……私が?」
「そう。」
紬は、少し困ったように笑った。
「そんなこと、覚えてない。」
「あなたは覚えていなくても、私は覚えているわ。」
美和の声は、穏やかだった。
「最初は、優しい子だと思っていたの。」
美和は一度、言葉を切った。
「それだけだった。誇らしく思っていたし。」
紬は黙って聞いている。
「でも、あなたが誰かに声をかけた後、その人の様子が変わることが何度もあった。」
「変わる?」
「ええ。」
美和は、ゆっくりと話した。長く悩んでいた人が、何かを決めた。家族と喧嘩していた人が、仲直りした。何かを諦めようとしていた人が、もう一度やってみようと思った。紬は、その人たちに何かをしたつもりはなかった。特別な言葉をかけたわけでもない。ただ、話を聞いた。あるいは、何気ない一言を言っただけだった。
「でも、何度も続くと……。」
美和は、指先を組んだ。
「偶然だと思えなくなった。」
紬は、黙っていた。
「あなたには、人の心に触れる何かがあるんじゃないかと思った。」
蓮は、静かに聞いていた。何も口を挟まない。紬の隣に座ったまま、ただ美和の話を聞いている。
「私は、それを最初は怖いと思わなかった。」
美和は言った。
「あなたは優しい子だったから。」
紬の胸が、少しだけ苦しくなった。
「でも、だんだん怖くなったの。」
「……どうして?」
紬が尋ねた。美和に、ずっと聞いてみたいと思っていたことだった。美和は、すぐには答えなかった。しばしの沈黙の後、おもむろに口を開いた。
「あなたが、誰かのために自分を使いすぎるんじゃないかと思ったから。」
紬は目を瞬いた。
「自分を?」
「ええ。」
美和は、娘をまっすぐ見た。
「あなたは、昔から自分のことを後回しにする子だった。」
紬は、何も言えなかった。
「誰かが困っていたら、自分が疲れていてもそちらを優先する。誰かが悲しんでいたら、自分まで悲しくなる。」
美和の声が、少しずつ震えた。
「そんなあなたの力を、利用する人が現れたらどうするんだろうと思った。」
店内の空気が、静かに沈んだ。
「あなたに、もっと助けてほしい。もっと力を使ってほしい。そう言う人が現れたら。」
美和は、苦しそうに笑った。
「あなたは、きっと断れないと思った。」
紬は、膝の上で手を握った。
「だから……?」
「ええ。」
美和は頷いた。
「遠ざけようとした。それが、ここで、ククノチで強くなっていると思ったから。」
その言葉は、紬が何度も聞いてきたものだった。パンから。町から。人から。そして、母から。
「あなたが悪いことをすると思ったわけじゃない。」
美和は、はっきりと言った。
「あなたが怖かったわけでもない。」
紬は、じっと母を見た。
「あなたが優しいから、怖かったの」
その言葉に、紬の胸が詰まった。
「優しいから?」
「ええ。」
美和は、ゆっくり頷いた。
「優しい人は、自分を守るのが苦手だから。」
紬は、目を伏せた。その言葉は、今まで聞いたことがなかった。母は、自分の力が嫌だったのだと思っていた。自分が普通ではないことを恐れていたのだと思っていた。けれど。
「……じゃあ」
紬は、声を絞り出した。
「私を遠ざけたのは、私を守るためだったの?」
美和は、しばらく黙った。
「そう思っていた。」
紬の胸が、少し痛んだ。なんて遠回りしたのだろう。
「でも」
美和は続けた。
「今思えば、守り方を間違えたのね。」
紬は顔を上げた。
「あなたを守りたかった。でも、結果的にあなたを傷つけてしまったわ。」
美和の目に、薄く涙が浮かんだ。
「あなたに、自分はおかしいんじゃないかと思わせた。」
紬は、何も言えなかった。
「パンを焼くことも、人と関わることも、あなたが好きだったものを、私が遠ざけた。」
「……うん。」
「ごめんなさい。」
美和は、静かに頭を下げた。紬は、その姿を見つめていた。すぐに「いいよ」とは言えなかった。母の気持ちが分かったからといって、過去の寂しさがなくなるわけではない。あの頃の自分が、母に遠ざけられて寂しかったこと。自分の好きなものを否定されたように感じていたこと。それは、今も紬の中に残っている。だから、簡単に許すことはできなかった。けれど。母もまた、怖かったのだ。自分と同じように。
「……お母さんも、怖かったんだね」
紬は、ぽつりと言った。美和は顔を上げた。
「ええ」
「私も、怖かったよ」
美和の目が揺れた。
「自分が変なのかもしれないって思ってた。」
紬は、ゆっくりと言葉を続けた。
「私が誰かに何か言うと、その人が変わることがあって。でも、私には何をしたのか分からなくて。」
蓮の手が、テーブルの上でわずかに動いた。紬の指先に触れる。握るわけではない。ただ、そこにいると伝えるように。紬はその指先を見た。そして、少しだけ力を抜いた。
「私のせいで、何か悪いことが起きるんじゃないかって思ったこともある。」
美和は、黙って聞いていた。
「だから、私も自分のことが怖かった。」
母と娘は、しばらく見つめ合った。長い間、二人の間にあったもの。恐怖、誤解、寂しさ。それらが、すぐに消えるわけではない。けれど、初めて同じ場所に置かれた気がした。美和が、ゆっくりと息を吐いた。
「紬。」
「うん。」
「私はまだ、あなたのことを全部分かっているわけじゃない。会わない時間だって沢山あったし。」
「うん。」
「でも、これから知りたいと思っている。」
紬は、母を見た。美和は、少し不安そうに笑った。
「今度は、怖がるだけじゃなくて。理解したいの。」
紬の目に、涙が浮かんだ。けれど、泣かなかった。代わりに、ゆっくり笑った。
「……うん。」
その横で、蓮は静かに二人を見ていた。美和が、蓮に視線を向ける。
「蓮くん。」
「はい。」
紬は、涙の残る顔で少し笑った。
「背筋、伸びすぎ。」
「……もう、今は仕方ないじゃろ。」
その言葉に、紬が小さく笑う。美和も笑った。重たかった空気が、ほんの少しだけ緩んだ。その時だった。蓮のスマートフォンが鳴った。蓮は画面を確認した。そこには、先ほど調べていた神社についての情報が表示されていた。蓮の表情が変わる。
「……蓮?」
紬が尋ねる。蓮は画面を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。
「石碑のこと、少し分かった」
「本当?」
蓮は頷いた。
「昔の神社の記録に、似たものが残っとる」
蓮は、画面を二人に見せた。蓮は画面をスクロールした。古い記録の一部に、石碑についての短い記述がある。そこには、かつてその場所にあったものについて、こう書かれていた。――ククノチ神の石碑。蓮の指が止まった。
「……ククノチ? やっぱり、そう書いてあったんだ。」
紬が呟いた。店の名前と同じだった。美和が、画面を見つめる。蓮は、写真を取り出した。
「祖父は、この石碑を見に来たんかもしれん」
蓮は、古い写真を見た。
「ただ植物を撮ったんじゃなくて」
写真の端に写った石碑。その向こうにある植物。
「この石碑を探しに来たんじゃ。」
紬は、神社で感じた懐かしさを思い出していた。あの場所に立った時の、不思議な感覚。知らないはずなのに、知っているような気がした。美和は、そんな紬の横顔を見ていた。そして、千鶴から聞いた言葉を思い出す。――紬には、人の心に触れる何かがある。それだけではないのかもしれない。この町とこの木と。そして、蓮の祖父が残した過去と。紬は、何かでつながっているのかもしれない。
けれど、その答えはまだ誰にも分からなかった。ただ、長い時間の向こう側から、ひとつの謎が静かにこちらへ近づいていた。蓮は写真を見つめる。紬は、その隣にいる。美和は、二人を見ていた。
母娘の間にあった距離は、ほんの少しだけ縮まった。そして同時に。蓮の祖父が残した謎は、さらに深い場所へと続いていた。




