木漏れ日とチョコレートバブカ(前編)
約束の日の朝、紬はいつもより少し早く目を覚ました。今日は、蓮と出かける。それだけのことなのに、目が覚めた瞬間から胸の奥が落ち着かなかった。恋人同士になってから、まだそれほど日が経っていない。
だから、蓮と出かけるという予定は、以前とは少し違って感じられた。これまでも一緒に出かけたことはある。けれど今は、蓮が自分の恋人だと思うだけで、何でもない予定まで特別なものに変わる。紬は身支度を整えながら、鏡の中の自分を見た。
「……別に、いつも通りでいいよね」
誰に言うでもなく呟く。その直後、スマートフォンが鳴った。
『着きました』
蓮からのメッセージだった。紬の胸が跳ねる。急いで鞄を手に取り、ククノチの外へ出た。店の前には、蓮の車が停まっていた。運転席のドアが開き、蓮が降りてくる。
「おはよう。」
「おはよう。」
蓮はいつものように穏やかに笑った。けれど、今日は手に古い写真と何冊かの資料を持っている。紬はそれを見て、思わず笑った。
「本当に調べる気満々なんだね。」
「じいさんの大事な約束らしいし、気になるしな。」
蓮はそう言いながら、写真を大事そうに鞄へしまった。
「それに、この町に来ようとしていた理由が分かるかもしれんから。」
「うん。」
紬は頷いた。蓮の祖父が、かつて常盤木町を訪れた。その時に撮ったと思われる写真が残っている。写真に写る植物と、現在の町に残る植物。その二つがつながっている可能性がある。蓮にとっては、ずっと気になっていた祖父の過去を知るための大切な手がかりだった。
紬は、そんな蓮の顔を見た。普段の蓮は穏やかで、どこか柔らかい。けれど、何かを調べている時の蓮は違う。目の奥に、静かな熱がある。写真を確認する指先も、いつもより慎重だった。その横顔を見ていると、紬の胸が少しだけ高鳴った。
――蓮って、こんな顔するんだ。
「……紬さん?」
「えっ。」
「どうしたん?」
「ううん。何でもないよ。」
真剣な横顔に見とれていたなんて、言えるわけがない。
「そう?」
「うん。」
紬は慌てて視線を逸らした。蓮は不思議そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。車が、常盤木町の坂道をゆっくりと上っていく。窓の外には、夏の光を受けた木々が流れていた。山の方へ進むにつれて、住宅の数が少なくなっていく。道の両側から伸びた枝が頭上を覆い、車内に木漏れ日がちらちらと落ちていた。
「今日は、天気が良くてよかったね。」
紬が言うと、蓮はハンドルを握ったまま笑った。
「雨でも行くつもりじゃったけど。」
「えっ。」
「写真の確認はせんといけんから。」
「蓮さんは真面目だなあ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
「紬さんに言われると、なんか褒められとる気がせんのじゃけど?」
「失礼だなあ。」
紬が笑うと、蓮も笑った。車内には、穏やかな空気が流れていた。以前なら、二人きりの車内では、紬はもっと緊張していたかもしれない。けれど今は、蓮の隣にいることが自然だった。それでも、ふとした瞬間に思う。自分は今、蓮の隣に座っている。しかも、大事な用の付き添いをしている。その事実を思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。
「どうしたん?」
また蓮が聞いた。
「え?」
「さっきから、時々笑っとるから。」
「笑ってた?」
「うん。」
「……蓮さんの大事な予定に入れてもらったんだなって思って。」
言った瞬間、紬はしまったと思った。蓮の手が、ほんの少しだけハンドルの上で止まる。
「……急にそういうことを言うんじゃな。」
「だって嬉しいから。」
「なんじゃあそれ。」
照れ隠しなのか、そっぽを向かれた。蓮の耳が少し赤くなった。紬はそれを見て、今度は自分が笑ってしまう。
「蓮さんも赤くなるんだ。」
「ワシかて、なりますよ。」
蓮は反射的に敬語で答えた。紬はすぐに振り返る。
「またおかしな敬語になった。」
「……あ」
「今のは結構変だった。」
「いや、これは。」
蓮は困ったように笑った。
「ワシをからかうのが楽しそうじゃな。」
車はさらに山道を進んでいった。やがて、古い石段が見えてくる。神社の入り口だった。車を停め、二人は並んで歩き始めた。石段の脇には、長い年月を生きてきた木々が立っていた。幹は太く、表面には深い皺が刻まれている。風が吹くと、葉が一斉に揺れた。ざあ、と低い音が頭上を流れていく。紬は足を止めた。
「……気持ちいい。」
「うん?」
「ここ、好きだなあ。」
紬は木々を見上げた。木漏れ日が、地面に複雑な模様を作っている。湿った土の匂い。遠くから聞こえる鳥の声。どこかに水の流れる音もする。ククノチの店内とは違う。けれど、紬にとっては、どこか似た安心感があった。
「紬さんは、こういう場所が好きじゃもんな。」
「わかるの?」
「そりゃあ、顔見とったらわかるよ。」
蓮は何でもないように言った。紬は、また少し嬉しくなった。蓮はそのまま先へ進んでいく。数歩歩いたところで、ふと振り返った。
「大丈夫?」
「うん。」
蓮は、紬が追いつくのを待っていた。何も言わず、歩く速度を緩めている。紬はそのことに気づいた。自分の歩幅が、蓮よりずっと短いからだ。蓮はいつも、自然に合わせてくれている。それが、紬には嬉しかった。二人は並んで境内へ入った。蓮はすぐに鞄から写真を取り出した。紬は思わず笑う。
「本当にすぐ調べるんだ。」
「本気で調べようと思ってるんじゃ。」
「うんうん。」
「なんじゃ、その言い方。」
蓮は写真を見ながら、周囲を見渡した。写真の中には、若い頃の祖父が立っている。その背後に、神社の建物と大きな木が写っていた。
「この木……。」
蓮が、境内の奥に目を向ける。そこには、写真の中に写っていたものとよく似た木があった。
「これじゃない?」
紬が尋ねる。
「たぶん」
蓮は写真を持ったまま、少しずつ場所を移動した。写真の中の木。石垣。社殿の屋根。それぞれの位置を確認していく。時々、スマートフォンで写真を撮る。その表情は真剣だった。紬は少し離れた場所に立って、その様子を見ていた。
蓮は、祖父のことを知りたいのだ。ただ昔の写真を見ているだけではない。祖父が何を見て、何を感じて、なぜこの町に来たのか。それを知ろうとしている。紬は、そんな蓮の姿を見ていた。
風が吹く。葉が揺れる。木漏れ日が蓮の長い髪に落ちた。真剣な横顔。写真を確認する指先。時折、眉間に寄るわずかな皺。紬は、また胸が高鳴るのを感じた。
――やっぱり、かっこいいな。
いつもは優しい。穏やかで、困っている人がいれば自然に手を差し伸べる。けれど、こうして何かに夢中になっている姿を見ると、別の魅力が見える。蓮はやはり、めちゃくちゃかっこいい。
「……紬さん」
「はいっ」
声をかけられて、紬はびくっとした。惚気ている場合じゃなかったようだ。
「何でそんなに驚くん?」
「驚いてないよ。」
「そう?」
「うん。」
「さっきから、こっち見とったから。」
「えっ。」
紬の顔が熱くなった。あまりに見つめすぎたかもしれない。
「ずっとは、見てないよ?」
「見とったよ。」
「見てないってば。」
恥ずかしさのあまり誤魔化そうとしてしまう。蓮は少し笑った。
「そういうことにしとく」
「何それ」
紬はぷいと顔を逸らした。蓮はまた写真に視線を戻す。その横顔を見て、紬は思う。この人の隣にいられることが、やっぱり嬉しい。蓮は写真の端を拡大していた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「これ。」
蓮が画面を見せる。写真の端に、何かが写っていた。
「石?」
「うん」
写真の中には、木の根元に小さな石碑のようなものがあった。今、同じ場所を見るとそれらしきものがある。
「これと同じやつかな。」
蓮は写真をもう一度確認する。石碑には、何か文字が刻まれている。しかし、写真が古く、文字ははっきりと読めない。
「拡大しても、全部は分からん。」
実物らしき石碑に近づく。
「何か書いてある?」
「たぶん」
蓮は画面を見つめた。紬も隣から覗き込む。見えるのは、いくつかの傷のような線だけだった。
「……ククノチ?」
紬が呟いた。蓮が振り返る。
「え?」
「そう書いてある。」
紬は自分でも不思議そうに写真を見た。
「でも、違うかも。文字が薄くて読みにくいし。」
蓮はしばらく黙っていた。それから、写真を撮り保存した。
「帰ったら、もう少し調べてみる」
「うん」
蓮は、もう一度写真を見た。その時だった。紬は、写真ではなく、境内の奥にある植物へ視線を向けた。古い木の根元に、見覚えのある葉があった。蓮の祖父の写真に写っていたものと同じ植物。紬は、ゆっくり近づいた。その植物に触れたわけではない。ただ、近くに立っただけだった。胸の奥に、奇妙な感覚が広がる。
――懐かしい。
そう思った。けれど、ここに来たことがある記憶はない。幼い頃の記憶を探っても、思い出せない。それなのに。この場所を知っているような気がした。ずっと昔から。ずっと前から。
「紬さん?」
蓮の声がした。紬は振り返った。
「どうしたん?」
「……ううん。」
「何かあった?」
「分からない。」
紬は植物を見た。
「ここ、なんだか懐かしい気がして。」
蓮は、少し驚いたように目を見開いた。
「来たことがある?」
「分からない。来たことはないと思う」
「でも、知っとる気がする?」
「うん。何故だろう。不思議な感覚。」
紬は自分の胸元に手を当てた。
「やっぱり、変だよね?」
「いや。」
蓮はすぐには否定しなかった。紬の言葉を考えるように、植物と写真を見比べる。
「変とは思わんよ。」
「そう?」
「うん。」
蓮は、写真を見た。
「じいさんも、ここで何かを感じたんかもしれん。」
紬は蓮を見た。
「蓮のおじいちゃんも?」
「分からんけど。」
蓮は少し笑った。
「でも、そうじゃったら面白いなと思って。」
その顔を見て、紬はまた胸が温かくなった。蓮は、紬の周りで起こりがちな不思議な現象もそのまま受け入れてくれる。けれど、無理に答えを決めつけることもしない。ただ、知りたいと思ったことを、丁寧に追いかけていく。そんな姿が、紬にはとても蓮らしく思えた。しばらくして、蓮は写真を鞄にしまった。
「今日は、これくらいにしようか」
「うん」
神社を出る前に、紬はもう一度境内を振り返った。木々の間から、午後の光が差し込んでいる。何かを思い出せそうで、思い出せない。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
蓮と一緒にここへ来た。それだけで、今は十分だった。石段を下りながら、蓮が言った。
「紬さん。」
「うん?」
「今日は、付き合わせてしもうてごめんな。」
「何が?」
「せっかくの休みなのに、ワシのじいさんのことばっかり調べて。」
紬は足を止めた。蓮が振り返る。
「紬さん?」
「私、こういう場所好き。」
「こういう場所?」
「うん。神社も好きだし、自然も気持ちよかったし。」
紬は少し考えた。それから、さっきまでの蓮の姿を思い出した。
「それに……」
「それに?」
「蓮が一生懸命になってるのを見るの、好き。」
言ってしまった。紬は自分の言葉を理解した。同時に、蓮も固まった。数秒の沈黙が落ちる。
「……」
「……」
紬の顔が、みるみる熱くなった。真剣に調べものしてる横でときめいていたのがバレた。
「今のは忘れて。」
「いや。」
蓮がようやく口を開いた。
「忘れんけど。」
「忘れて!」
「無理じゃろ。こんな可愛いこと言われたらもー。」
「お願いだから!」
蓮は笑った。紬は顔を隠したくなった。けれど、蓮の笑い声を聞いていると、自分まで笑ってしまう。木々の間を抜ける風が、二人の間を通り過ぎた。蓮の祖父が残した一枚の写真。そこに写っていた植物。
蓮は一つずつ手がかりを拾っている。紬はその隣で、そんな蓮を見ている。その時間が、どうしようもなく嬉しかった。神社を後にする二人の背後で、古い木の葉が風に揺れた。
まるで、長い時間を越えて、何かが静かに目を覚まし始めたように。




