素直な心と明太フランス(後編)
蓮が店に入ってきてから、紬はどうにも落ち着かなかった。別に、いつもと変わらない。蓮がククノチに来ることも、紬と話すことも、これまで何度もあった。しかし最近二人は、恋人になった。その事実を思い出すたびに、紬の胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「紬さん」
「なに?」
「今日のクリームパンは?」
店内を探すように見渡す。クリームパンは連の好きなパンである。
「……ないよ。」
「ないん?」
「今日は作ってないから。」
「なーや、そうか……。」
蓮は本当に残念そうな顔をした。
「そんな顔しなくても。」
「いや、別に。」
「食べたかったんだね。」
「ワシの好きなパンじゃし、毎日作ってもらえるんかと思っとった。」
「そんな特典ないですー。」
「そうなん?」
「私は特別扱いしないの。」
紬が笑うと、蓮も笑った。その会話を聞いていた美和が、ふと顔を上げる。
「二人とも、楽しそうね。」
「えっ。」
紬の手が止まった。
「そうですか?」
蓮はなぜか、また少し背筋を伸ばした。
「ほら。」
紬がすかさず言う。
「また緊張してる。」
「いや、だからこれはじゃな……。」
「お母さんがいると、蓮、急にちゃんとするよね。」
「僕はいつもちゃんとしとるじゃろ?」
「そうかなあ。」
紬はからかい口調で楽しそうだ。蓮はそんな紬に少しタジタジになっている。
「そうじゃろ。」
「じゃあ、いつも通りにしてみて。」
「いつも通り?」
「うん。」
蓮は少し考えた。どう仕返ししてやろうか? そして、紬を見た。
「……紬さん。」
「うん。」
「そうやってワシのことからかって楽しんでる顔も、かわいいな。」
「えっ。」
紬の顔が一気に熱くなった。
「ちょっと!」
「何が?」
「何がじゃないよ!」
蓮はきょとんとした顔をしている。その顔があまりにも自然で、紬は余計に困った。
「そういうこと、急に言わないでよ!」
「でも、思ったことを言っただけじゃけど。」
「……そういうところがずるい。」
「何が?」
「もういい。」
紬は顔を背けた。その様子を見て、美和はまた静かに笑った。蓮は美和に気づかれないように、紬へ少しだけ近づいた。
「顔、赤い紬さんもかわいいですよ。」
「蓮さんのせいでしょ。またヘンテコな敬語だし。」
「僕のせいなん?」
「そう。」
好きな人が自分の発言に顔を赤くしたり、怒ったり。こんな楽しいことはない。蓮は上機嫌だ。
「それは……すみません。」
「そこは謝らなくていいの!」
蓮が声を立てて笑う。その笑い声に、紬もつられて笑った。ククノチの店内は、いつの間にか三人の気配で満たされていた。美和はパソコンに向かい、紬はパンを作り、蓮はカウンターの端に座っている。
それぞれが別のことをしているのに、不思議と居心地が悪くなかった。しばらくして、蓮が鞄から一枚の写真を取り出した。
「そうじゃ。紬さん、これ。」
「なに?」
紬が近づく。蓮が差し出したのは、古い写真だった。そこには、若い頃の蓮の祖父が写っている。背景には、木々に囲まれた小さな神社があった。
「この写真、前に見せてもらったやつ?」
「そう。けど、少し気になることが分かった。」
蓮は写真の端に写った植物を指さした。
「これ、見覚えがあったんじゃ。」
「植物?」
「うん。祖父の残した資料を整理しとった時に、何度か同じ植物の写真が出てきた。」
蓮はスマートフォンを取り出した。画面には、植物の写真が表示されている。
「それで、常盤木町の神社にある植物と似とることに気づいた。」
「常盤木町の神社って……。」
「この町の、あの神社。」
蓮は写真を見つめた。
「今度、実際に見に行ってみようと思う。」
紬は、古い写真と蓮の横顔を見比べた。
「一人で?」
蓮が顔を上げる。
「……一緒に来てくれる?」
それは、以前の蓮ならもっと慎重に言っていたかもしれない。けれど今は、少しだけ自然だった。恋人だから。そう思うだけで、紬の胸が温かくなる。
「うん」
紬は笑った。
「行く」
「よかった。」
蓮も笑った。
「じゃあ、今度の休みにでも――。」
「蓮くん。」
突然、美和が声をかけた。二人が同時に振り向く。
「はい、美和さん。」
「私がいるからと、そんなに緊張しなくて大丈夫よ」
「……はい!」
紬がまた吹き出した。
「ほら、今も。」
「もう、紬さん。いじわるじゃ。」
「だって。」
蓮は困ったように笑いながら、写真を鞄にしまった。その時、美和の視線が、ほんの一瞬だけ写真に向いた。常盤木神社、この町に唯一ある古い神社が写っていた。
午後になり、蓮が帰った後も、ククノチには静かな時間が流れていた。紬は店の片づけをしながら、時々、窓の外を見た。蓮が帰っていった方向。ほんの少し前まで、同じ町の中にいるだけで嬉しかった。今は、恋人として一緒に神社へ行く約束までしている。
「……なんか、変な感じ。」
紬が呟く。
「何が?」
美和が聞いた。
「え?」
「また蓮くんのこと考えてる?」
「えっ。」
紬の顔が赤くなる。
「違う、そういうんじゃなくて!」
「そういうことじゃないの?」
「……そういうことだけどぉ。」
言ってから、紬はさらに赤くなった。
美和は笑った。
「大好きなのね。」
紬は、うなずきながら、少しだけ母を見た。
「……お母さん。」
「なに?」
「蓮さんのこと、どう思う?」
聞いてしまってから、紬は少し後悔した。母に恋人の話をする。それは、今までの自分には考えられないことだった。美和は少し考えた。
「優しくてしっかりしている。」
「うん。」
「それに、あなたのことをよく見ている。」
「……うん。」
紬は、少しだけ嬉しくなった。
「でも、時々すごく変な敬語になるんだよ。」
「そう。」
「敬語になったり、岡山弁になったりして。」
「ふふ。まだ距離感が掴めないのね。」
「笑わないでよ。」
「ごめんなさい。」
美和は笑いながら、また画面へ視線を戻した。その日の夕方。美和がパソコンを閉じた。店内には、千鶴が戻ってきていた。
「お疲れさま。」
「おかえりなさい。」
美和はそう言ってから、少しだけ迷った。
「お母さん。」
「ん?」
「紬のことなんだけど。」
千鶴の表情が、わずかに変わった。
「……紬がどうしたの?」
「今日、お客さんと話しているのを見ていて。」
美和は、昼間の女性客のことを話した。一人の時間が欲しい。でも、夫が嫌いなわけではない。そんな話。
「紬は、あの人に『一人で食べてもいいと思います』と言ったんです。」
「そうか。」
「それだけなのに、その人の顔が少し変わった。」
美和は、店の奥にいる紬を見た。紬はパンの棚を整理している。
「昔から、あの子はそうだったの。」
「……うん。そうだね。」
千鶴は少し黙った。
「でもね。紬は、人の心を変えているんじゃない。」
美和が千鶴を見る。
「え?」
「その人が、自分で変わるためのきっかけを、そっと渡しとるだけなんだよ。」
美和は、すぐには答えなかった。
「それは……紬の力なんですか?」
千鶴は、答えを急がなかった。窓の外では、夕暮れの光が町を包み始めていた。
「力という言葉で片づけていいものかは、わからないよ。」
「……。」
「ただ、あの子には、人の心に触れる何かがある。」
美和は、紬を見た。娘は、こちらに背を向けている。何も知らない顔で、パンを並べている。
「やはり、子どものころからよね?」
「ああ、今も変わっていないよ。」
千鶴は、静かに答えた。
「だけど、紬は自分が何をしとるんか、よくわかっていない。」
美和の胸に、昔の記憶がよみがえった。幼い紬が、誰かのそばに立っていた。泣いている人の隣に。困っている人の隣に。いつも、何も言わずに。ただ、そこにいた。
「……私は。」
美和は小さく呟いた。
「それを、怖いと思ってしまった。」
千鶴は黙って聞いていた。
「紬が人と違うことをするたびに、何か悪いことが起きるんじゃないかと思って。」
「うん。」
「だから、遠ざけようとした。」
美和の声が、少し震えた。
「この町からも。パンからも。」
千鶴は、何も否定しなかった。
「でも、今日見ていたら……。」
美和は、紬の背中を見つめた。
「この子は、ずっとこうして、特に意識することなく、呼吸をするように人を助けていたのかもしれないと思ったの。場所やパンは関係ない。」
千鶴は、ゆっくり息を吐いた。
「助けているかはわからないよ。」
「え?」
「紬は、相手の人生を代わりに歩くことはできないからね。」
千鶴は、紬を見た。
「ただ、ほんの少しだけ、その人が自分で歩き出すためのきっかけを作るのが得意なんだよ。」
美和は、黙ってその言葉を聞いていた。その時、紬が振り返った。
「お母さん?」
「なに?」
「今日、晩ご飯どうする?」
美和は一瞬、言葉を失った。それから、ゆっくり笑った。
「……そうね」
娘の声を聞く。娘の顔を見る。それだけのことが、今は以前とは違っていた。
「何が食べたい?」
紬が尋ねる。美和は少し考えた。
「明太フランス。」
「え?」
「今日は、明太フランスが食べたいわ。」
紬は驚いた顔をした。明太フランス—―今日のおすすめパン。そして、ふっと笑った。
「じゃあ、今から作るね!」
「ええ。」
店の外では、夕暮れがゆっくりと夜へ変わり始めていた。ククノチの中には、母と娘と、まだ語られていない秘密があった。そして、蓮の祖父が残した一枚の写真もまた、静かに次の場所へ二人を導こうとしていた。




