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素直さと明太フランス(前編)

 朝のククノチには、いつもと少し違う空気が流れていた。窓際の二人掛けのテーブルに、美和が座っている。テーブルの上には、ノートパソコンと数冊の本。それから、紬が淹れたコーヒーが置かれていた。美和は画面に向かって、静かにキーボードを打っている。その姿を、紬はパンの成形をしながら何度も見ていた。

 母がククノチで仕事をしている。それだけのことなのに、まだ少し不思議だった。以前なら、母が何をしているのか気になっても、聞けなかった。今も、完全に気軽に聞けるわけではない。何を書いているのか。どんな小説なのか。なぜ、ここで書くことにしたのか。

 聞きたいことは、いくつもあった。けれど、聞いてしまえば、何かが変わってしまう気もした。だから紬は、黙ってパンを作っていた。その時、美和が画面から顔を上げた。


「紬。」


「うん?」


「このコーヒー、おかわりできる?」


「あ、うん。もちろん。」


 紬はすぐに立ち上がった。コーヒーを淹れ直し、母の前に置く。


「ありがとう。」


「ううん。」


 それだけの会話だった。けれど、紬は少しだけ嬉しかった。以前なら、母とこういうやり取りをすること自体が、想像できなかった。美和は再び画面に向かう。紬も作業に戻った。店内には、キーボードを打つ音と、パンを成形する音が重なっていた。それは、紬が今まで知らなかったククノチの音だった。やがて、店の扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。女性は店内を見渡し、少し迷ったようにしてから、パンの並ぶ棚の前へ向かった。明太フランスの前で、足を止める。


「あら……。おいしそうね。」


 紬が声をかけた。


「明太フランス、お好きですか?」


「ええ。昔はよく食べていたんですけど。」


「昔は?」


「最近は、あまり買わなくなりましたね。」


 女性は笑った。の笑顔は明るかったが、どこか疲れているようにも見えた。


「じゃあ、今日は久しぶりにどうですか?」


 紬が言うと、女性は明太フランスを手に取った。


「そうですね。たまにはいいかもしれません。」


 そのままレジへ向かいかけたが、ふと足を止めた。


「……でも、これを買って帰ったら、夫に何か言われそうだわ。」


「何かって?」


「また一人分だけ用意してって。」


 女性は苦笑した。


「夫が最近定年したので、ずっと家にいるんです。」


「ああ……。」


 紬は、何となく事情を察した。


「定年退職されたんですか?」


「そう。少し前にね。」


 女性は明太フランスを持ったまま、店内のテーブルに目を向けた。


「夫が悪い人ってわけじゃないんですよ。むしろ優しい人です。」


「ええ。」


「でも、今までずっと仕事に行っていた人が、朝から晩まで家にいるでしょう?」


「はい。」


「最初は、よかったんです。退職したんだから、ゆっくりすればいいって思っていました。」


 女性は、少しだけ困ったように笑った。


「でも、私にも夫が家にいない間の生活があったんですよね。」


 紬は黙って聞いていた。


「朝、夫が出かけた後に一人で飲むコーヒーとか。お昼に適当に作るご飯とか。誰にも何も言われずに見るテレビとか。」


「……はい。」


「そういう時間が、全部なくなった気がして。」


 女性は明太フランスを見た。


「これも、昔はよく一人で食べていたんです。夫が辛いものを苦手にしているから。」


「ああ……。」


「でも、今は家にいるから。これを買って帰ったら、きっと『一人で食べるの?』って聞かれると思うんです。」


 女性はそこで言葉を切った。紬は、何かを言わなければと思った。けれど、夫婦のことは分からない。自分は結婚しているわけでもない。誰かと暮らした経験も、長い夫婦生活も知らない。だから、簡単に「こうすればいい」と言うことはできなかった。

 それでも、目の前の女性が、明太フランスを棚に戻そうとしているのを見ていると、なぜかそのままにしておけなかった。


「……一人で食べてもいいと思います。」


 女性が顔を上げた。紬は、自分の言葉を確かめるように続けた。


「その……旦那さんが嫌いじゃなくても、一人でいたい時間ってあると思うので。」


 女性は、少し驚いた顔をした。


「そう思います?」


「はい。」


 紬は小さく笑った。


「一人の時間が欲しいからって、相手が嫌いってことにはならないと思います。」


 その言葉を聞いていた美和の指が、キーボードの上で止まった。紬は気づかない。


「だから、今日は一人で食べてもいいと思います。」


 女性はしばらく黙っていた。それから、ふっと肩の力を抜いた。


「……そうですよね。」


「はい。」


「私、夫が家にいること自体が嫌なわけじゃないんです。ただ、少しだけ一人になりたかったんです」


「それでいいと思います。それを素直に伝えてみてください。」


 紬は、今度は迷わずに言った。女性は明太フランスを見下ろした。


「じゃあ、今日はこれを買います。」


「ありがとうございます。」


「帰って、夫に何か言われたら……。」


 女性は少し考えた。


「今日は一人で食べたいって言ってみようかしら。」


「それがいいと思います。」


「言えるかしら。」


「……頑張ってください。」


 紬が言うと、女性は笑った。


「あなたに言われると、言えそうな気がします。」


「え?」


「なんだか、不思議ね。」


 女性は明太フランスを袋に入れてもらいながら、少し照れたように笑った。


「じゃあ、今日は一人で食べます。」


「ぜひ。」


「でも、明日は夫と一緒に食べるかもしれません。」


「それもいいと思います。」


 女性は笑って、店を出ていった。扉が閉まる。紬は、しばらくその背中を見送っていた。やがて、窓の外へ視線を向ける。女性は歩道を歩きながら、スマートフォンを取り出した。誰かに連絡をするのだろうか。紬には分からない。

 ただ、明太フランスの入った袋を持つ女性の歩き方が、店に入ってきた時より少しだけ軽くなったように見えた。


「……よかった。」


 紬が小さく呟いた。その声に、美和が顔を上げた。


「何が?」


「え?」


「今、よかったって言ったでしょう。」


「ああ……。」


 紬は少し考えてから、窓の外を見た。


「うん。なんとなくお客さんの顔、晴れたかなって。」


 美和は、娘の横顔を見つめた。紬は、特別なことをしたつもりはないのだろう。誰かを救おうとしたわけでもない。ただ、目の前の人の話を聞いて、思ったことを言っただけ。けれど、相手は少しだけ表情を変えて帰っていった。美和は再び画面に目を戻した。そこには、書きかけの文章が表示されていた。しかし、しばらくの間、文字を打つことができなかった。

 ふと、昔の紬を思い出す。幼い頃から、紬は人のことをよく見ていた。誰かが悲しそうにしていると、すぐに気づいた。誰かが困っていると、そっと近くに行った。それは、紬が意識してやっていたことではなかった。いつも、自然にそうしていた。美和は、画面の端に視線を落とした。そして、また紬を見た。


 今、紬はパンの生地を伸ばしている。真剣な顔をしているが、鼻の頭に小さく粉がついていた。美和はそれを見て、思わず口元を緩めた。


「紬。」


「ん?」


「鼻。」


「え?」


「粉、ついてるよ。」


「えっ」


 紬は慌てて鼻をこすった。けれど、取れない。


「そこじゃないよ。」


「え、どこ?」


「もう少し右。」


「右ってどっち?」


「ふふ。……あなた、昔からそういうところ変わらないわね。」


「どういうこと?」


「何でもない。」


 美和は、初めて少しだけ笑った。紬は不思議そうに母を見る。それから、ふと自分も笑った。店内に、小さな笑い声が重なった。



 その時、ドアベルの音が聞こえた。紬が何気なく窓の方を見た。見慣れた姿が、店の前にいた。胸が、ほんの少しだけ跳ねる。ラフな服装に、長い髪を後ろでまとめている。いつもの教師としての蓮とは少し違う。けれど、紬にはすぐに分かった。蓮だ。紬は、無意識に姿勢を正した。その様子を、美和が見ていた。蓮が扉を開ける。


「こんにちは。」


「いらっしゃいませ。」


 紬は、いつものように言いかけてから、少しだけ口元を緩めた。


「……蓮さん。」


 名前を呼ぶだけで、まだ少し照れる。蓮も、ほんの少し目を細めた。


「うん。こんにちは、紬さん」


 その声に、以前のような教師と生徒の距離はなかった。けれど、母親がいることに気づいた瞬間、蓮は一度だけ背筋を伸ばした。紬はそれを見逃さなかった。


「今、ちょっと先生っぽかったよ。」


「え?」


「姿勢、しゃんとしたでしょ。」


 蓮は美和に向かって軽く頭を下げた。


「こんにちは。お邪魔します」


 紬が吹き出した。


「どうしたの。」


「いや、これは普通の挨拶じゃろ?」


「でも今、敬語だった。」


「……それは。紬さんのお母さんがおるけん。」


 蓮は困ったように笑った。美和は、二人を静かに見ていた。紬の頬が、少し赤い。蓮の表情も、学校で見せるものとは違っている。その空気を見て、美和はふと目を細めた。二人はとても相性が良いのだろう。それは、母親である自分にも分かった。美和は再びノートパソコンへ視線を戻した。


 その横で、紬と蓮の会話が続いていく。ククノチには、少しずつ新しい日常が増えていた。

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