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歩み寄るクイニーアマン(後編)

「眠そうだね?」


 紬がそう言うと、美和は一瞬、目を瞬いた。それから、少しだけ目元を細める。


「そう?」


「うん。」


 声をかけることができた。たったそれだけのことなのに、紬の胸の奥では、何か大きなことを成し遂げたような安堵が広がっていた。言えた。ちゃんと声をかけられた。

 それなのに、美和がこちらを見ていると、今度は次に何を言えばいいのか分からなくなる。


「……ちょっと寝不足かもしれないわね。」


 美和はそう言って、ノートパソコンの画面を閉じた。紬は、ほっとしたような、少し残念なような気持ちになった。

 会話が終わってしまった。せっかく話しかけたのだから、もう少し何か話したい。けれど、何を話せばいいのかは分からない。


「遅くまで仕事してたの?」


 ようやく出てきた言葉は、意に反して咎めるようになってしまい、少しだけぶっきらぼうだった。美和は、そんな紬を見て、ほんのわずかに目を見開いた。


「ええ。昨日、少し書き直したくなって。」


「小説?」


「そう。」


 美和は頷いた。小説家になってからの母は、以前よりも時間の使い方が自由になった。決まった時間に出勤する必要もない。仕事場に行く必要もない。

 けれど、だからこそ、区切りがつきにくいのだと美和は言っていた。書こうと思えば、いつまでも書ける。直そうと思えば、どこまでも直せる。

 そして、気がついた時には夜が明けそうになっている。


「ちゃんと眠れているの。」


 紬は言った。言ってから、少しきつかったかもしれないと思った。けれど、美和は怒らなかった。


「そうね。」


 ただ、少し困ったように笑った。


「そうした方がいいのは分かってるんだけどね。」


 その笑い方を見て、紬は何も言えなくなった。子どもの頃の記憶が、ふと蘇った。夜遅くまで仕事をしていた母。リビングの明かり。テーブルの上に積まれた書類。母が仕事を終えるまで起きているつもりだった。待っているつもりだった。けれど、いつの間にかソファで眠ってしまっていた。

 目が覚めた時にはいつもベッドの中だった。母が自分を抱き上げていたのか。それとも、いつの間にか布団に運ばれていたのか。もう、はっきりとは覚えていない。

 ただ、母が遅くまで仕事をしていたことだけは覚えている。


「……お母さん。」


「なに?」


 紬は、少し迷った。けれど、今度はさっきよりも声が出しやすかった。


「休憩してパン、食べる?」


 美和は、少しだけ目を丸くした。


「パン?」


「うん。」


 紬は店内を見回した。いつものパンが、棚に並んでいる。その中から、紬は一つを選んだ。


「これ。」


 トングで取ったのは、クイニーアマンだった。表面には、砂糖が焼けてできた薄い琥珀色の膜がある。光を受けると、飴のようにきらりと輝いていた。


「クイニーアマン?」


「うん。」


 紬は袋に入れながら説明した。


「外側はぱりぱりしてて、中はバターの香りがして……少し甘いけど、コーヒーにも合うよ。」


「紬が作ったの?」


「そう。」


「じゃあ、いただこうかしら。」


 美和は、ほんの少し笑った。紬は、その笑顔を見て、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。母が自分の作ったパンを食べる。それは、これまでにも何度もあったことのはずだった。けれど、今は少し違って見えた。紬は、クイニーアマンを皿に乗せた。


「温める?」


「ええ」


「じゃあ、少しだけ」


 紬は厨房へ戻った。オーブンの温度を確認する。クイニーアマンを温める間、店内には小さな機械音が響いた。

 美和は、その様子を黙って見ていた。紬は、パンを温めている。子どもの頃には、ただ母を待ってソファで眠っていた娘が今は、自分の店でパンを焼き、母に食べさせようとしている。そのことが、美和には不思議だった。


「はい」


 紬が皿を置いた。表面の砂糖が、温められて少しだけ柔らかくなっている。


「熱いから気をつけて」


「ありがとう」


 美和はフォークを手に取った。クイニーアマンの表面にフォークを入れる。ぱり、と小さな音がした。その音に、紬はなぜか少しだけ嬉しくなった。美和が一口食べる。しばらく黙って、味わっていた。


「……おいしい。」


「ほんと?」


「ええ。」


 美和はもう一口食べた。


「甘いけど、嫌な甘さじゃないわね。コーヒーによく合うように作られている。」


「砂糖が焼けてるから、少し香ばしいんだと思う。」


「そう。」


 美和は、もう一口食べた。紬は、向かいの席に座った。母と向かい合って食事をすること自体は、珍しいことではない。けれど、今は二人の間にクイニーアマンが一つある。そのことが、妙に不思議だった。


「……昔ね。」


 美和が、突然言った。紬は顔を上げた。


「何?」


「あなたが小さい頃、私は夜遅くまで仕事をしていたでしょう。」


「うん。」


 紬は少し驚いた。母の方から、その話が出るとは思わなかった。


「あなた、よくソファで寝ていたわね。」


 紬の胸が、少しだけ詰まった。


「……待ってたんだと思う。」


「何を?」


「お母さんが仕事終わるの。」


 美和は黙った。紬自身も、そんなことを言うつもりはなかった。ただ、クイニーアマンのぱり、と鳴った音が、昔の記憶を引き出したような気がした。


「でも、いつも寝ちゃってた。」


「ええ。」


 美和は小さく笑った。


「何度も起こそうとしたけど、気持ちよさそうに寝ていたから。」


「……起こしてくれればよかったのに。」


 紬は、少しだけ拗ねたように言った。


「待ってたのに。」


 言った瞬間、店内の空気がわずかに変わった。紬は、自分が何を言ったのかに気づいた。責めるつもりはなかった。でも、その言葉には、幼い頃の自分の気持ちがそのまま残っていた。待っていた、母を。母が仕事を終えるのを。母と話すのを。ただ、それだけだった。


「……そうね。」


 美和が言った。


「待っていたのね。」


 その声は、いつもより少し低かった。紬は、母の顔を見た。美和はクイニーアマンに視線を落としている。何かを思い出しているようだった。


「ごめんなさい。」


「え?」


 紬は驚いた。


「何が?」


「あなたを待たせていたこと。」


 紬は、すぐには答えられなかった。謝ってほしいと思っていたのだろうか。ずっと? 自分でも分からなかった。ただ、母の口からその言葉を聞くと、胸の奥にあった何かが、少しだけ揺れた。


「……別に、」


 紬は、いつものように答えようとした。でも、うまく言葉が続かなかった。


「別に、待ってたかっただけだから。」


 美和が顔を上げる。紬は、少しだけ笑った。


「お母さんが仕事してるの、邪魔したくなかったし。」


「でも、寂しかったでしょう。」


 その言葉に、紬は黙った。—―寂しかった。そうだったのかもしれない。けれど、当時の自分は、それを寂しいとは思っていなかった。母が仕事をしている。自分は待っている。それが普通だった。


「……分かんない」


 紬は正直に言った。


「寂しかったのかもしれないけど、よく分からない」


 美和は、何も言わなかった。紬も、無理に言葉を探さなかった。ただ、二人の間に置かれたクイニーアマンを見つめていた。表面の砂糖が、光を受けてきらきらしている。ぱり、と音を立てる外側。その下にある、柔らかな生地。紬は、なんとなく思った。自分たちに、似ているのかもしれない。外側は固く見えても、その内側には柔らかい部分がある。それを、すぐに見せられる人ばかりではない。母も。自分も。


「……もう一つ食べる?」


 紬は言った。美和は、少し驚いたように紬を見た。


「いいの?」


「うん。」


「……太るかしら。」


「一個食べたくらいで太らないよ。」


「小説家は座ってる時間が長いから。」


「じゃあ、少し歩けばいいじゃん。」


 美和は、目を大きく瞬かせた。


「あなた、なかなか言うようになったわね。」


「何それ。」


 紬は思わず笑った。美和も、少し遅れて笑った。大きな笑いではなかった。けれど、確かに二人で笑った。それだけのことが、今の紬には大切だった。クイニーアマンを食べ終えた美和は、少しだけ姿勢を正した。


「……紬。」


「うん。」


「この町にいる間、少しは店を手伝ってもいいかしら。」


 紬は目を瞬いた。


「店を?」


「ええ。」


「でも、お母さん仕事があるでしょ。」


「仕事はどこでもできるから。」


 美和はそう言って、店内を見回した。


「それに、ここにいる間、何もしないでいるのも落ち着かないもの。あなたが言うように、少し体を動かす時間も必要だしね。」


 紬は、すぐに答えられなかった。母が店を手伝う。昔の自分なら、きっと嫌だった。自分の大切な場所に、母が入ってくることが。でも、今は怖さがないわけではない。けれど、母がここにいることを、少しずつ受け入れ始めている自分もいた。


「……いいよ。」


 紬は言った。


「本当に?」


「うん。」


 少し考えてから、付け加える。


「でも、無理はしないでね。」


 美和は、少し目を見開いた。それから、ふっと笑った。


「ええ。」


「寝不足の時は、ちゃんと寝て。」


「分かったわ。」


「あと、ちゃんとご飯も食べて。」


「分かった。」


「仕事しすぎないで。」


「……それは努力するわ。」


「そこは分かったって言ってよ。」


 紬が笑う。美和も笑った。まだ、母娘の間にあるものが全部消えたわけではない。過去のことも。紬が抱えている傷も。母が抱えている後悔も。何一つ、今日一日で解決したわけではない。それでも。紬は、母に声をかけた。紬にとっては、それだけで十分に大きな一歩だった。




 夕方。店の外が少しずつ橙色に染まり始める。美和は、再びノートパソコンを開いた。けれど、今度は先ほどよりも表情が穏やかだった。紬は、厨房で明日の仕込みを始める。ククノチに母がいる。少し不思議で。少し落ち着かなくて。でも、思っていたほど嫌ではなかった。


「紬」


「うん?」


「明日も、クイニーアマンを食べてもいい?」


 美和が聞いた。紬は、振り返った。


「いいよ。」


「じゃあ、材料がある日は作ってくれる?」


「うん。」


 紬は笑った。


「でも、食べすぎたら太るよ?」


「……あなた、さっきからそればかりね。」


「だって。」


「あなたも食べるでしょう。あなたも巻き添えよ。」


「私はいいの。」


「どうして?」


 紬は少し考えた。


「作ってるから、パンが焼けるにおいで割とおなかが膨らむの。」


 美和は、呆れたように笑った。紬も笑った。店内に、二人の笑い声が響く。それを聞きながら、千鶴は少し離れた場所で、静かに二人を見ていた。まだ始まったばかりだ。母と娘が、長い間にできた距離を、少しずつ埋めていくには時間がかかる。けれど今日、紬は自分から声をかけた。そして、美和もまた、紬の言葉を受け止めた。それでいい。急がなくていい。千鶴は、そう思った。


 窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと町を包んでいた。ククノチの中には、焼きたてのパンの香りが残っている。そして、さっき食べたクイニーアマンの表面が鳴らした、小さな音の余韻も。ぱり、と鳴った音は、すぐに消えた。けれど、その音の奥にあったものは。紬の中に、静かに残っていた。

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