歩み寄るクイニーアマン(前編)
蓮と恋人同士になってから、まだ何日も経っていなかった。それなのに、紬は朝から少し落ち着かなかった。
いつも通りに目を覚まし、いつも通りに顔を洗い、いつも通りにククノチへ向かう。店の扉を開け、窓を開け、厨房の明かりをつける。
何も変わっていない。そう思うのに、ふとした瞬間に、胸の奥がくすぐったくなる。
――蓮さんが好きだって言ってくれた。
その事実は、何度思い返しても、まだ少し現実味がなかった。付き合う前から、蓮は紬にとって特別な人だった。
だからこそ、恋人になったからといって、急に何かが大きく変わるわけではない。それでも。
今までと同じ「蓮さん」という人が、今は自分の恋人なのだと思うと、同じ顔を見ても、同じ声を聞いても、胸の中に生まれるものが少し違った。
「紬、そろそろパンを並べるよ」
「うん」
千鶴の声に、紬は慌てて意識を戻した。焼き上がったパンをトレーに並べていく。クリームパン、メロンパン、あんバターフランス。焼きたてのパンから立ち上る香りが、まだ少し冷たい朝の店内に広がっていった。
いつもの匂い。いつもの音。いつものククノチ。紬は少しだけ安心して、次のパンに手を伸ばした。
その時、店の扉についたベルが鳴った。からん、と軽い音が店内に響く。
「こんにちは」
聞き慣れた声だった。紬の手が止まった。分かっている。この時間に来る人が誰なのか。それでも、胸が一度、大きく跳ねた。
「……こんにちは」
振り返る。蓮が立っていた。学校帰りなのだろう、シャツにジャケットという、いつものきちんとした格好をしている。
けれど、学校で生徒たちに向ける時の表情とは違った。紬を見ると、ほんの少し目元が緩む。それだけの変化なのに、紬には分かった。
自分に向けられた表情だと思うと、また胸が騒ぐ。蓮もまた、店に入ってすぐ、いつもとは少し違う紬の様子に気づいていた。
顔を合わせるだけで、紬の表情がわずかに硬くなる。けれど目が合うと、へにゃり、と笑う。その反応が可愛らしくて、蓮は思わず口元を緩めた。
――こらこら、顔に出過ぎじゃ。俺も、同じような顔をしているのだろうか。
そう思ったところで、蓮は少しだけ自制した。学校では、いつも通りにしていた。教師として、生徒たちに接していた。けれど、ククノチの扉を開けた瞬間から、どうしても気持ちが緩む。紬がいるからだ。
「今日は何かおすすめはありますか?」
蓮は、いつも通りの調子で尋ねた。
「えっと……今日はフォカッチャが焼きたてです」
「じゃあ、それにします」
「はい」
紬はトングを手に取った。フォカッチャを一つ、袋に入れる。その動作を見ながら、蓮はふと思った。
――自分たちのやりとりは、まだ敬語だ。
もちろん、紬が敬語を使うことに不満があるわけではない。それは、二人が出会った時から続いてきた関係の一部だった。教師と、パン屋の店主。そして、紬にとっての「蓮さん」と、蓮にとっての「紬さん」。今まで積み重ねてきたものがあるからこそ、急に変えるのは難しい。
けれど、恋人になった今はもう少しだけ、近くなってもいいのではないか。
「……紬さん」
「はい?」
紬が顔を上げる。蓮は、一度言葉を飲み込んだ。店には今、自分の他には客はいないようだ。どう切り出すのが正解なのか、少し考える。そんな蓮の様子を、紬は不思議そうに見つめていた。
「二人の時くらい、敬語をやめてみませんか」
「えっ」
紬の目が丸くなる。その反応を見て、蓮は少し笑った。
「そんなに驚きますか?」
「だって……」
紬は、手にした袋を見下ろした。
「蓮さんが、そういうこと言うと思わなくて」
「僕だって言いますよ」
「そうですか?」
「言います」
答えた直後、蓮は自分の言葉を少し振り返った。
――また敬語じゃ。
紬もそれに気づいたらしい。
「でも、蓮さんは先生ですし」
「それはそうなんですけど」
「ほら」
「え?」
「今の話し方、先生みたいです」
紬が笑う。蓮は少しだけ眉を下げた。
「先生みたいって……僕は先生ですけど」
「そうなんですけど、そうじゃなくて」
「どういうことですか?」
「学校で生徒に説明している時みたい」
蓮は一瞬、言葉を失った。自分ではそんなつもりはない。けれど、紬が笑っている。その笑顔を見ていると、否定する気もなくなった。
「……僕、そんなに先生っぽいですか?」
「先生ですよ」
「それは否定できませんね」
蓮は苦笑した。紬もつられて笑う。その笑い声を聞きながら、蓮は思った。この感じが好きだ。何でもないことで笑っている。付き合う前も、紬とはよく話をした。
けれど、今はその笑顔を見ていると、以前とは違う感情が湧いてくる。自分の言葉で笑ってくれた。自分の前で、こんなふうに笑っている。そのことが、思っていた以上に嬉しい。
「……でも」
蓮は、少しだけ声を落とした。
「晴れて恋人になれたのに、いつまでも他人みたいな話し方をしているのも、どうかなと思いまして」
紬の顔が赤くなる。その言葉が、やはりまだ特別に響く。
「……恋人」
紬が小さく繰り返した。
「はい」
蓮は答えてから、少し照れたように視線を逸らした。その様子を見て、紬の胸がまた熱くなる。
蓮は、いつも落ち着いている。何か困ったことがあっても、慌てる姿をほとんど見せない。けれど、こういう時には、ほんの少しだけ視線が泳ぐ。そう言うところが愛おしく感じる。
「……じゃあ」
紬は、少し考えた。
「蓮さんの普段話し方って、岡山弁ですか?」
蓮は、少し目を見開いた。
「……そうですね?」
「それは敬語ですね」
「いや、これは……」
蓮は言葉を探した。
「普段の話し方と、仕事の話し方が混ざっているんです」
「じゃあ、岡山弁で話してみてください」
「急ですね」
「蓮さんが敬語をやめたいって言ったんですよ」
「僕が?」
「はい」
「……そうでしたね」
蓮は小さく息を吐いた。それから、少しだけ紬の方へ身を乗り出した。
「じゃあ……紬さん」
「はい」
「今日、何してたん?」
紬は、一瞬、目を瞬いた。それから、頬が緩んだ。
「……今のは自然です」
「そうですか?」
「うん」
「じゃあ、これでええんかな」
「いいと思います」
「紬さんもまだ敬語じゃな」
「あっ」
今度は紬が固まった。蓮が笑う。
「だって、難しいんです」
「僕も難しいです」
「じゃあ、お互い様ですね」
「そうじゃな」
蓮が自然に返した。紬は、また笑った。けれど、笑いながらも、胸の中には不思議な感覚があった。
蓮の岡山弁は、今までも聞いたことがある。けれど、今は少し違う。恋人になった自分に向けられている。そう思うだけで、同じ言葉が少しだけ特別に聞こえた。
「……あの」
紬は、ふと口にした。
「前から伝えたかったんですけど。私、蓮さんの岡山弁、好きです」
言った瞬間、自分で驚いた。そんなことを言うつもりはなかった。ただ、思ったことがそのまま口から出てしまった。蓮も、完全に動きを止めた。耳が赤い。
「……」
「……」
数秒の沈黙。紬は、自分の発言を頭の中で繰り返した。好きです。今、私は何を言ったのだろう。
「あの、今のは……」
「それは」
蓮が、ゆっくり口を開いた。
「急に言わんでください」
紬は目を丸くした。
「変な敬語です」
紬は、とうとう吹き出した。
「ふふっ」
「何ですか」
「岡山弁なのに敬語」
「仕方ないでしょう」
「ほら、先生に戻ってる」
「先生じゃないです」
「先生です」
「先生じゃないけ。なーやぁ。」
紬は、また笑った。蓮は困ったような顔をしている。けれど、怒っているわけではない。
むしろ、自分でもおかしいと思っているのだろう。その表情が、紬にはたまらなく可愛く見えた。
いつもは、もっと先を歩いているように見える人だった。落ち着いていて、頼りになって。何かあれば、きっと自分を導いてくれる。そんな人だと思っていた。でも今は。
どう話せばいいのか分からなくなっている。敬語を使ったり、岡山弁になったり。そのたびに自分で困っている。
そんな蓮を見ていると、胸の奥がふわりと温かくなった。
「蓮さんにも、戸惑うことがあるんですね」
「僕を何だと思っているんですか」
「何でもできる人」
蓮は、少しだけ目を細めた。
「それは買いかぶりですよ」
「そうですか?」
「そうです」
「車の運転も上手でしたし」
「それは普通です」
「英語も話せるし」
「仕事です」
「料理もできるし」
「……それは、まあ」
「ほら」
蓮は、思わず笑った。紬はその笑顔を見て、また胸が高鳴る。やっぱり、かっこいい。
この前のデートでそう思った。長身で、顔立ちが整っていて、運転する姿も似合っていた。
けれど、こうして近くで話していると、かっこいいだけではない。笑った時の目元。困った時に少し下がる眉。考える時にわずかに視線を逸らす癖。
そういうものを一つずつ知っていくことが、恋人になるということなのかもしれない。
「……でも」
蓮が言った。
「話し方は、まだうまく切り替えられません」
「無理に変えなくてもいいんじゃないですか?」
「でも、できるだけ近づきたいですから」
またそう言うことをさらりと言う。紬は、照れてしまい今度こそ何も言えなくなった。蓮もまた、照れたように笑った。
「もう少し、普通に話したいんです」
「普通に?」
「はい」
「じゃあ……」
紬は少し考えた。
「練習しますか?」
「敬語をやめる練習ですか?」
「はい」
「ここで?」
「ここで」
蓮は真面目な顔で頷いた。
「分かりました」
「また敬語」
「……分かった」
「今のはいいです」
「じゃあ、紬さんも」
「えっ」
「僕に何か言ってみてください」
紬は困った。何を言えばいいのだろう。蓮の顔を見ながら考えると、余計に緊張する。
「……フォカッチャ、おいしいよ」
ようやく出てきた言葉に、蓮は少し笑った。
「それでいいと思います」
「また敬語」
「すみません」
「それも敬語」
「……ごめん」
「うん」
紬は笑った。蓮も笑った。
「じゃあ、今日はこれで」
「何が?」
「敬語をやめる練習」
「まだ全然できてないですよ」
「そうですか?」
「そうじゃろ」
蓮が言った。紬は、思わず目を見開いた。
「今のは完璧です」
「本当ですか?」
「……」
「すみません」
「戻った」
紬が笑う。蓮は、もう諦めたように肩をすくめた。
「難しいんじゃ」
「ふふっ」
その一言が、紬の胸に残った。岡山弁で話す蓮。
少し照れた蓮。先生に戻ってしまう蓮。どれも、今まで知っていた蓮のはずなのに、恋人になった今は、少しだけ違って見える。蓮は、買ったフォカッチャを手に取った。
「じゃあ、また来るな」
「うん」
紬は自然に答えた。蓮が、ふと目を見開く。
「……今」
「何?」
「敬語じゃなかったですね」
「あ」
紬は自分でも気づいていなかった。蓮は、嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、僕も頑張らんといけませんね」
「うん。頑張って」
「……はい」
紬は、すぐに笑った。「また敬語」蓮は一瞬黙った。そして、困ったように笑った。
「……頑張るけん」
「うん」
「これでええ?」
「うん」
「じゃあ、またな」
「またね」
蓮が扉へ向かう。ベルが鳴る。その背中が外へ消えていく。紬は、扉が閉まった後もしばらく、その方向を見ていた。
さっきまで蓮がいた場所に、まだ気配が残っているような気がした。紬は、自分の頬にそっと触れた。熱い。
「……恋人、かあ」
口に出してみる。まだ、少し不思議だった。でも、さっきの蓮の顔を思い出すと、自然に笑みがこぼれた。
敬語をやめたいと言ったのに、結局、何度も先生に戻っていた。岡山弁になったかと思えば、次の瞬間には敬語になっている。そんな蓮がおかしくて、可愛くて。そして、何より嬉しかった。
自分との距離を、少し近づけようとしてくれていることが。
「……なんか、いいな」
紬は小さく呟いた。
「何がいいの?」
背後から千鶴の声がした。
「わっ!」
紬は飛び上がった。
「お、おばあちゃん!」
「何をそんなに驚いてるの」
「いつからそこにいたの?」
「ずっといたけど」
「……」
紬は、頬が熱くなるのを感じた。もしかして、全部聞かれていたのだろうか。千鶴は何も言わず、ただ楽しそうに目を細めている。
「何ですか?」
「別に」
「絶対何か思ってますよね」
「別に何も思ってないよ」
「その顔は絶対何か思ってる」
「ふふ」
千鶴が笑う。紬は、少しだけ頬を膨らませた。
店の奥から、かすかな音がした。紬は何気なく振り返る。美和が、ノートパソコンに向かっていた。画面に視線を落としたまま、キーボードを打っている。
けれど、その手が止まった。美和は目元を指で押さえた。そして、小さくあくびをする。
紬の表情から、さっきまでの笑みが少しずつ消えた。
……眠そう。
そう思った。美和は、もう一度画面を見た。けれど、まばたきがいつもより遅い。少しして、また目元を押さえる。
紬は、無意識に手にしていたトングを握り直した。声をかけようか。そう思った。ただ、それだけのことなのに。足が動かなかった。
「お母さん、眠そうだね。」
そう言えばいい。たったそれだけだ。
けれど、紬は美和の背中を見つめたまま動けなかった。邪魔に思われたら嫌だ。仕事をしているのに、話しかけていいのだろうか。そもそも、今さら自然に声をかけることなんてできるのだろうか。
そんな考えが、次々に浮かんでくる。美和が、また小さくあくびをした。紬の胸の奥に、古い記憶が浮かんだ。夜遅くまで仕事をしていた母。リビングの明かり。テーブルの上に置かれた書類。
幼い自分は、母が仕事を終えるのを待っていた。待っているつもりだった。けれど、いつの間にかソファで眠ってしまっていた。
母が仕事を終えたのか。自分がいつ眠ったのか。詳しいことは、もう覚えていない。ただ、母が遅くまで働いていたこと。自分がその終わりを待っていたこと。そして、いつの間にか眠っていたこと。その感覚だけが残っている。
紬は、今の美和を見る。母は、昔と同じように眠そうな顔をしている。けれど、自分はもう子どもではない。そして今は、同じ店の中にいる。声をかけようと思えば、かけられる距離にいる。
それなのに。紬は、また手元へ視線を落とした。
やっぱり、難しい。何を言えばいいのか分からない。声をかけた後、どうすればいいのかも分からない。でも。
美和が、またあくびをした。今度は口元を手で隠すこともできないほどだった。紬は思わず眉を寄せた。
「……もう。」
小さく呟く。気になる。放っておけない。そう思った。だったら、声をかければいい。それだけなのに、やっぱり足が動かない。紬はぎゅっと手を握った。
「……ああ、もう。」
誰にも聞こえない声で呟く。
(頑張れ、私)
自分に言い聞かせる。美和が画面を見つめている。その横顔は、疲れているように見えた。紬は、深く息を吸った。
(……お母さんに、眠そうって言うだけでしょ)
自分に言い聞かせる。
「それくらい……できる」
もう一度、息を吸う。そして、ぎゅっと拳を握った。
「頑張れ、私」
紬は、ようやく歩き出した。数歩先にいる美和のところへ。
「……お母さん」
美和が顔を上げる。
「なに?」
紬は、一度だけ唇を結んだ。そして、ゆっくり息を吸った。
「お母さん、眠そうだね?」




