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賑やかな来訪者とクリームパン(後編)

 坂の下から歩いてくる、見慣れた長身の姿。蓮だった。紬の心臓が、また一つ大きく跳ねた。昨日までと同じように、蓮はククノチへ向かって歩いてくる。


「あっ!」


 先に蓮を見つけたのは、生徒たちだった。


「藤代先生!」


 坂を下りかけていた三人が、声を揃える。蓮も足を止めた。


「おや。こんなところでどうしたんですか?」


「先生こそ!」


「私たち、先生の好きなパン買ってきました!」


 三人が、嬉しそうに袋を掲げる。蓮は一瞬だけ目を丸くした。


「……そうですか」


「あと、紬さんにも会いました!」


「ええ」


「めっちゃ美人でした!」


「……」


 蓮の表情が、わずかに固まった。店の中からその様子を見ていた紬は、思わず口元を押さえた。


「先生が言ってた通りでした!」


「何を言ったんですか、僕は」


「美人だって!」


「……」


「先生、やっぱり紬さんのこと好きなんじゃん!」


「そういうことを大きな声で言わないように」


 蓮は困ったように眉を下げた。しかし、生徒たちはますます楽しそうだった。


「でも先生、今日も紬さんに会いに来たんですよね?」


「パンを買いに来ただけです」


「でも顔が嬉しそう!」


「……君たちは、よく人の顔を見ていますね」


「先生のことはよく見てますから!」


 三人は笑いながら坂を下っていく。


「じゃあ、先生! また明日!」


「はい。気をつけて帰ってください」


 蓮は手を上げて見送った。生徒たちの姿が坂の向こうへ消えるまで、蓮は教師の顔をしていた。

 その背中を、紬は店の中から見ていた。生徒たちと話す蓮は、いつもの蓮とは少し違って見えた。

 落ち着いていて、少し困ったように笑っていて、それでも生徒たちのことをきちんと見ている。先生の顔。紬が知っている蓮とは、少し違う蓮。

 やがて蓮が、店の方を振り返った。目が合う。その瞬間、蓮の表情が少しだけ変わった。

 生徒たちに向けていた教師の顔が、ふっとほどける。


「……見てました?」


 店に入ってきた蓮が、少し気まずそうに尋ねた。


「少しだけ」


「そうですか」


「蓮さんって、学校ではあんな感じなんですね」


「どんな感じですか?」


「先生っぽい感じ」


「僕はいつも先生ですよ」


「そうですけど……」


 紬は言葉を探した。昨日まで、蓮は自分にとって「先生」だった。もちろん、それだけではなかった。でも、今日からは。


「……なんだか、変な感じです」


「何がですか?」


「昨日まで常連さんだった人が、今日は……」


 そこまで言って、紬は口を閉じた。蓮が少し笑う。


「今日は?」


「……なんでもないです」


「そうですか」


 蓮は、いつものようにパンの並んだ棚へ向かった。けれど、その横顔を見ているだけで、紬は昨日までとは違う気持ちになる。


「そういえば」


 紬が言った。


「生徒さんたち、蓮さんのことすごく人気の先生だって言ってました」


「そうですか?」


「はい」


「僕には、あまり実感がないですね」


「そして、私の話をよくしてるって」


 蓮の手が、パンの前で止まった。


「……聞きましたか」


「はい」


「そうですか」


 蓮は少しだけ視線を逸らした。


「私のこと、そんなに話してたんですか?」


「そんなに、というほどでは……」


「でも、よく話してたって」


「……まあ」


 蓮は困ったように笑った。


「紬さんの話をするのが、嫌ではなかったんです」


「嫌ではなかった?」


「ええ」


 蓮は、棚に並んだパンを見ながら続けた。


「聞かれたら、嬉しかったんでしょうね」


 紬は黙って蓮を見た。


「でも、当時は自分でも、どうしてそんなに紬さんの話をしているのか、よく分かっていませんでした」


「……今は?」


 聞いてから、紬はしまったと思った。蓮がこちらを見る。


「今は、分かりますよ」


 穏やかな声だった。紬の心臓が跳ねる。


「……何がですか?」


「どうして、紬さんの話をしていたのか」


「……」


「大事な人だったからでしょうね」


 あまりにも自然に言われて、紬は息を止めた。昨日から、蓮の言葉が少しずつ変わった気がする。いや。もしかしたら、変わったのは蓮ではなく、自分の受け取り方なのかもしれない。


「……大事な人」


 紬が小さく繰り返す。蓮は、少し照れたように笑った。


「僕にとっては、大事な女性なので」


「……っ」


 紬の顔が一気に熱くなる。


「な、何ですか、それ……」


「何がですか?」


「急にそういうことを言うのは……」


「急にではないですよ」


 蓮は穏やかに言った。


「以前から、紬さんが大事だったことは変わりませんから」


 紬は言葉を失った。恋人になったから、急に大切になったのではない。恋人になる前から。蓮の中では、もう自分は大切な人だった。そのことが、胸の奥にじんわりと広がっていく。


「……私」


 紬は、どうにか声を出した。


「蓮さんのこと、まだ全然知らないんですね」


「そうですね」


「学校でどんな先生なのかも知らなかったし」


「僕も、紬さんの知らないところで、いろいろな顔をしていますよ」


「……そうなんだ」


「紬さんもでしょう?」


「私?」


「はい。僕が知らない紬さんも、きっとたくさんいる」


 蓮はそう言って、少し笑った。


「だから、これから知っていけばいいんじゃないですか」


 紬はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 恋人になったからといって、相手のことを全部知っているわけではない。

 知らないところがあるからこそ、これから知っていける。


「……じゃあ、蓮さんの学校でのことも、これから少しずつ教えてください」


「分かりました」


「あと、私のことをどれくらい話してたのかも」


「それは……」


 蓮が苦笑する。


「できれば忘れてください」


「嫌です」


「なぜですか」


「知りたいので」


 紬がそう言うと、蓮は少し目を見開いた。それから、ふっと笑った。


「分かりました。では、少しずつ」


「はい」


 その様子を、店の奥で美和が見ていた。パソコンの画面は開いたままだった。けれど、しばらく文章は進んでいない。

 千鶴から、蓮のことは聞いていた。紬を気にかけてくれている人。紬が大切に思っている人。それくらいだった。けれど、実際に二人を見ていると分かる。

 紬が蓮を見る時の顔。蓮が紬を見る時の目。会話の間にある、言葉にしなくても伝わるもの。美和は、二人の関係が変わったことを悟った。いや、正確には、変わったというよりようやく、二人の気持ちが同じ場所にたどり着いたのだろう。


「……紬」


 美和が声をかけた。


「ん?」


 紬が振り返る。美和は少しだけ迷った。


「蓮さんは……紬の大事な人なのね。」


 紬は蓮を見た。蓮も、少し驚いたように美和を見る。紬は、ほんの少しだけ笑った。


「……うん」


 その返事は、とても自然だった。美和は、紬の表情を見つめた。自分は、この子がこんな顔をすることを知らなかった。誰かを大切に思っている顔。誰かに大切にされている顔。

 そのことに、胸の奥が少し痛んだ。もっと早く知っていればよかった。そんな思いが、ふと浮かぶ。けれど、美和はそれを口にしなかった。まだ、口にできるほど二人の距離は近くない。


「……よかったわね。」


 それだけを言った。紬は少し驚いたように美和を見た。それから、ゆっくりと頷いた。


「……うん。」


 その返事を聞いて、美和は小さく笑った。店の外では、夕方の風に大きなシダの葉が揺れていた。


 ククノチの中には、焼きたてのパンの匂いと、昨日までとは少し違う二人の空気が流れていた。

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