↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
65/81

賑やかな来訪者とクリームパン(前編)

 朝のククノチには、焼きたてのパンの匂いが満ちていた。

 オーブンから取り出した天板を作業台に置き、紬はふう、と息を吐く。いつもと変わらない朝だった。


 パンをこねて、発酵を待って、焼き上がったものを並べる。窓から差し込む光も、坂の下から聞こえてくる車の音も、昨日までと何も変わっていない。なのに。


「……蓮さんだって。」


 ぽつりと呟いた瞬間、紬の手が止まった。思い出しただけで、頬が熱くなる。

 昨日の海。車の中で交わした会話。夕方の光を受けた蓮の横顔。そして、あの言葉。


 ――僕は、紬さんが好きです。


「……っ」


 思わず両手で頬を押さえた。


「朝からえらい忙しい顔してるねぇ。」


 背後から千鶴の声がして、紬は飛び上がった。


「えっ、な、何が?」


「顔が赤くなったり、ぼんやりしたり、急に笑いそうになったり」


「笑ってないよ!」


「そう?」


「そう!」


 勢いよく否定してから、紬は自分の声が妙に大きかったことに気づいた。千鶴は何も言わず、にやりと笑った。


「……何?」


「別に」


「その顔、絶対別にじゃない」


「紬ちゃんがそう言うなら、別にじゃないんでしょう。」


「もう……」


 紬はそっぽを向き、焼き上がったパンを一つずつトレーに並べていく。けれど、口元に浮かんだ笑みを消すことはできなかった。

 その様子を、店の奥のテーブルから美和が静かに見ていた。ノートパソコンの画面には、書きかけの原稿が表示されている。

 美和は小説家だ。決まった時間に決まった場所へ通う必要はない。締め切りさえ守れば、仕事をする場所は選べる。


 だから、しばらく常磐木町に滞在することになった今も、仕事を続けることはできた。今日はククノチで執筆活動をしている。パンの焼ける匂い。オーブンの音。紬が店の中を動き回る気配。

 そういうものがある方が、なぜか筆が進むことがあった。


「お母さん、仕事してるなら、無理にここに来なくてもいいよ」


 紬が、少し遠慮がちに声をかけた。美和は画面から顔を上げる。


「うん」


「……うん?」


「ここにいる方が、書ける時もあるから」


 美和はそう答えた。紬は少しだけ目を瞬かせた。


「そうなんだ。」


「うん。」


「じゃあ……邪魔しないようにするね。」


「どちらかと言うと私がお邪魔しているから。」


 美和はすぐに答えた。紬の手が止まる。短い沈黙が流れる。それから紬は、いつものように少しだけ笑った。


「……そっか。」


「うん。」


 それだけだった。けれど、以前ならなかった会話だった。紬は再びパンの並べ替えを始め、美和はパソコンの画面に目を戻す。店内には、キーボードを打つ音と、パンを置く小さな音が交互に響いた。その穏やかな時間は、昼前に突然破られた。


「ここじゃない?」


「えー、でも普通のパン屋さんじゃん」


「だからここだって! 蓮先生が言ってたもん」


 店の外から、明るい声が聞こえてくる。紬が顔を上げた。やがて、女子高校生が三人、少し遠慮がちに店の扉を開けた。


「こんにちはー……」


「いらっしゃいませ」


 紬が笑顔で迎える。三人は店内を見回した。焼きたてのパンが並ぶ棚。木のテーブル。窓辺のトケイソウ。そして、カウンターの向こうに立つ紬。三人のうち、一人が急に目を見開いた。


「あっ!」


 紬が驚いてそちらを見る。


「もしかして……紬さんですか?」


「え?」


「小鳥遊紬さん?」


「……はい。そうですけど」


 答えた瞬間、三人が顔を見合わせた。


「やっぱりー!」


「えっ、ほんとに?」


「めっちゃ美人!」


「思ってた通りじゃん!」


 あまりの勢いに、紬は目を丸くした。


「え、あの……?」


「藤代先生が好きなパン屋さんって、ここですよね?」


「藤代先生が?」


「そうです!」


 三人は一斉に頷いた。


「先生、たまに言ってるんですよ。ここのパンが好きだって」


「あと、紬さんのことも」


「……私のこと?」


 紬の声が少し裏返った。


「はい!」


「先生、紬さんのことすごく褒めてますよ」


「優しい人だって」


「一人でパン屋さんやっててすごいって」


「それから……」


 一人の生徒が、いたずらっぽく笑った。


「めっちゃ綺麗な人だって」


「……」


 紬は固まった。


「えっ、そこ?」


 隣の生徒が笑う。


「だって先生、言ってたもん」


「紬さんは綺麗な人だから、って」


「ええ……」


 紬は思わずカウンターに手をついた。蓮が、学校で。自分のことを、綺麗な人だと。


「紬さん、大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。顔が熱い。さっきまでとは違う意味で、心臓が落ち着かない。生徒たちはそんな紬の様子を見て、ますます楽しそうに笑った。


「先生、紬さんのこと好きですよね?」


「えっ?」


「だって、めっちゃ話すんですよ」


「ククノチのパンがどうとか」


「紬さんがこういう人で、ああいうパンを作っててって」


「この前なんて、季節限定のパンが出たって、授業の合間に話してましたよ」


「先生、紬さんの話するときだけちょっと嬉しそうなんですよね」


「そうそう!」


 紬は、何も言えなかった。蓮が学校で自分の話をしていた。そのこと自体が、まず意外だった。蓮はいつも落ち着いていて、必要以上に自分のことを話す人ではない。ましてや、紬の話を学校でするなんて。


「でも、先生に聞いたことあるんですよ」


 一人の生徒が言った。


「何を?」


「先生、紬さんのこと好きなんじゃないですかって」


「……!」


 紬の手が、また止まった。


「そしたら先生、なんて言ったと思います?」


「……なんて?」


「『そういうことを先生に聞くものではありません』って」


 生徒たちは、蓮の声を真似るように言った。紬の脳裏に、いつもの蓮の姿が浮かぶ。少し困ったような顔。でも、完全に否定するわけではない。


「それで、先生がちょっと笑ったんですよ」


「だから、みんなで言ったんです」


「絶対好きじゃんって」


「先生、分かりやすすぎるんですよ」


 紬は、ますます何も言えなくなった。蓮は、そんなふうに見られていたのか。これまで自分に向けられていたあの優しさも。何度もククノチに来てくれたことも。パンを買いながら、何気ない話をしてくれたことも。

 もしかしたら、蓮の中ではもっと早くから、特別なものだったのだろうか。紬は昨日のことを思い出した。海へ向かう車の中。助手席から見た蓮の横顔。自分のことを「大事な人」だと言ってくれたこと。そして、好きだと伝えてくれたこと。胸の奥が、またじわりと熱くなった。


「それで、今日は先生の好きなパンを買いに来たんです!」


 生徒の一人が、明るい声を上げた。


「先生が一番好きなのって、どれですか?」


「え?」


「蓮先生がいつも買ってるパン!」


 三人の視線が、棚に並んだパンへ向く。紬は、少し考えた。


「蓮さんは……」


 言いかけて、慌てて言い直す。


「藤代先生は、クリームパンをよく買います」


 紬が指差したパンを見て、生徒たちは一斉に声を上げた。


「えー! これなんだ!」


「意外!」


「先生、こういうの好きなんだ!」


「じゃあ私これにする!」


「私も!」


 気づけば、三人とも同じパンを手にしていた。


「先生に、私たちも買ったって言おうよ」


「うん!」


「紬さんに会ったってことも言っていいですか?」


 紬は一瞬だけ迷った。そして、


「……はい」


 と答えた。生徒たちは嬉しそうに笑い、パンを受け取った。


「ありがとうございました!」


「こちらこそ」


 扉が開き、三人の明るい声が店の外へ遠ざかっていく。紬はしばらく、その背中を見送っていた。


「……蓮さんって、女子生徒にも人気なんですね。」


 気づけば、そう呟いていた。千鶴が、パンを並べながら答える。


「慕われてるんだねぇ。」


「でも……」


 紬は、店の外を見たまま言った。


「女の子たちの憧れの先生だったんだなって」


 その言葉を口にすると、妙な気持ちになった。自分は今まで、蓮を自分が知っている蓮としてしか見ていなかった。

 英語を教える先生。岡山弁で話す人。パンを買いに来る人。自分を気にかけてくれる人。

 けれど、学校では。生徒たちにとって、蓮はまた別の顔を持っている。


「……私、ちょっと悪いことした気分です」


「なんでじゃ」


「だって……」


 紬は言葉に詰まった。昨日、自分は蓮と恋人になった。そのことを、まだ誰にも話していない。もちろん、生徒たちに言う必要なんてない。

 それでも、蓮に憧れているらしい彼女たちの前で、嘘をついているようで。心の中だけで、


 ――ごめんなさい。


 と思ってしまった。


「……なんでもないです」


 紬は小さく笑った。その時、店の外に気配がした。紬が反射的に顔を上げる。坂の下から歩いてくる、見慣れた長身の姿。蓮だった。紬の心臓が、また一つ大きく跳ねた。

 昨日までと同じように、蓮はククノチへ向かって歩いてくる。けれど、昨日から自分たちの関係性は少し変わっていた。

 その事実を思い出しただけで、紬の頬がまた熱くなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。