賑やかな来訪者とクリームパン(前編)
朝のククノチには、焼きたてのパンの匂いが満ちていた。
オーブンから取り出した天板を作業台に置き、紬はふう、と息を吐く。いつもと変わらない朝だった。
パンをこねて、発酵を待って、焼き上がったものを並べる。窓から差し込む光も、坂の下から聞こえてくる車の音も、昨日までと何も変わっていない。なのに。
「……蓮さんだって。」
ぽつりと呟いた瞬間、紬の手が止まった。思い出しただけで、頬が熱くなる。
昨日の海。車の中で交わした会話。夕方の光を受けた蓮の横顔。そして、あの言葉。
――僕は、紬さんが好きです。
「……っ」
思わず両手で頬を押さえた。
「朝からえらい忙しい顔してるねぇ。」
背後から千鶴の声がして、紬は飛び上がった。
「えっ、な、何が?」
「顔が赤くなったり、ぼんやりしたり、急に笑いそうになったり」
「笑ってないよ!」
「そう?」
「そう!」
勢いよく否定してから、紬は自分の声が妙に大きかったことに気づいた。千鶴は何も言わず、にやりと笑った。
「……何?」
「別に」
「その顔、絶対別にじゃない」
「紬ちゃんがそう言うなら、別にじゃないんでしょう。」
「もう……」
紬はそっぽを向き、焼き上がったパンを一つずつトレーに並べていく。けれど、口元に浮かんだ笑みを消すことはできなかった。
その様子を、店の奥のテーブルから美和が静かに見ていた。ノートパソコンの画面には、書きかけの原稿が表示されている。
美和は小説家だ。決まった時間に決まった場所へ通う必要はない。締め切りさえ守れば、仕事をする場所は選べる。
だから、しばらく常磐木町に滞在することになった今も、仕事を続けることはできた。今日はククノチで執筆活動をしている。パンの焼ける匂い。オーブンの音。紬が店の中を動き回る気配。
そういうものがある方が、なぜか筆が進むことがあった。
「お母さん、仕事してるなら、無理にここに来なくてもいいよ」
紬が、少し遠慮がちに声をかけた。美和は画面から顔を上げる。
「うん」
「……うん?」
「ここにいる方が、書ける時もあるから」
美和はそう答えた。紬は少しだけ目を瞬かせた。
「そうなんだ。」
「うん。」
「じゃあ……邪魔しないようにするね。」
「どちらかと言うと私がお邪魔しているから。」
美和はすぐに答えた。紬の手が止まる。短い沈黙が流れる。それから紬は、いつものように少しだけ笑った。
「……そっか。」
「うん。」
それだけだった。けれど、以前ならなかった会話だった。紬は再びパンの並べ替えを始め、美和はパソコンの画面に目を戻す。店内には、キーボードを打つ音と、パンを置く小さな音が交互に響いた。その穏やかな時間は、昼前に突然破られた。
「ここじゃない?」
「えー、でも普通のパン屋さんじゃん」
「だからここだって! 蓮先生が言ってたもん」
店の外から、明るい声が聞こえてくる。紬が顔を上げた。やがて、女子高校生が三人、少し遠慮がちに店の扉を開けた。
「こんにちはー……」
「いらっしゃいませ」
紬が笑顔で迎える。三人は店内を見回した。焼きたてのパンが並ぶ棚。木のテーブル。窓辺のトケイソウ。そして、カウンターの向こうに立つ紬。三人のうち、一人が急に目を見開いた。
「あっ!」
紬が驚いてそちらを見る。
「もしかして……紬さんですか?」
「え?」
「小鳥遊紬さん?」
「……はい。そうですけど」
答えた瞬間、三人が顔を見合わせた。
「やっぱりー!」
「えっ、ほんとに?」
「めっちゃ美人!」
「思ってた通りじゃん!」
あまりの勢いに、紬は目を丸くした。
「え、あの……?」
「藤代先生が好きなパン屋さんって、ここですよね?」
「藤代先生が?」
「そうです!」
三人は一斉に頷いた。
「先生、たまに言ってるんですよ。ここのパンが好きだって」
「あと、紬さんのことも」
「……私のこと?」
紬の声が少し裏返った。
「はい!」
「先生、紬さんのことすごく褒めてますよ」
「優しい人だって」
「一人でパン屋さんやっててすごいって」
「それから……」
一人の生徒が、いたずらっぽく笑った。
「めっちゃ綺麗な人だって」
「……」
紬は固まった。
「えっ、そこ?」
隣の生徒が笑う。
「だって先生、言ってたもん」
「紬さんは綺麗な人だから、って」
「ええ……」
紬は思わずカウンターに手をついた。蓮が、学校で。自分のことを、綺麗な人だと。
「紬さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
大丈夫ではなかった。顔が熱い。さっきまでとは違う意味で、心臓が落ち着かない。生徒たちはそんな紬の様子を見て、ますます楽しそうに笑った。
「先生、紬さんのこと好きですよね?」
「えっ?」
「だって、めっちゃ話すんですよ」
「ククノチのパンがどうとか」
「紬さんがこういう人で、ああいうパンを作っててって」
「この前なんて、季節限定のパンが出たって、授業の合間に話してましたよ」
「先生、紬さんの話するときだけちょっと嬉しそうなんですよね」
「そうそう!」
紬は、何も言えなかった。蓮が学校で自分の話をしていた。そのこと自体が、まず意外だった。蓮はいつも落ち着いていて、必要以上に自分のことを話す人ではない。ましてや、紬の話を学校でするなんて。
「でも、先生に聞いたことあるんですよ」
一人の生徒が言った。
「何を?」
「先生、紬さんのこと好きなんじゃないですかって」
「……!」
紬の手が、また止まった。
「そしたら先生、なんて言ったと思います?」
「……なんて?」
「『そういうことを先生に聞くものではありません』って」
生徒たちは、蓮の声を真似るように言った。紬の脳裏に、いつもの蓮の姿が浮かぶ。少し困ったような顔。でも、完全に否定するわけではない。
「それで、先生がちょっと笑ったんですよ」
「だから、みんなで言ったんです」
「絶対好きじゃんって」
「先生、分かりやすすぎるんですよ」
紬は、ますます何も言えなくなった。蓮は、そんなふうに見られていたのか。これまで自分に向けられていたあの優しさも。何度もククノチに来てくれたことも。パンを買いながら、何気ない話をしてくれたことも。
もしかしたら、蓮の中ではもっと早くから、特別なものだったのだろうか。紬は昨日のことを思い出した。海へ向かう車の中。助手席から見た蓮の横顔。自分のことを「大事な人」だと言ってくれたこと。そして、好きだと伝えてくれたこと。胸の奥が、またじわりと熱くなった。
「それで、今日は先生の好きなパンを買いに来たんです!」
生徒の一人が、明るい声を上げた。
「先生が一番好きなのって、どれですか?」
「え?」
「蓮先生がいつも買ってるパン!」
三人の視線が、棚に並んだパンへ向く。紬は、少し考えた。
「蓮さんは……」
言いかけて、慌てて言い直す。
「藤代先生は、クリームパンをよく買います」
紬が指差したパンを見て、生徒たちは一斉に声を上げた。
「えー! これなんだ!」
「意外!」
「先生、こういうの好きなんだ!」
「じゃあ私これにする!」
「私も!」
気づけば、三人とも同じパンを手にしていた。
「先生に、私たちも買ったって言おうよ」
「うん!」
「紬さんに会ったってことも言っていいですか?」
紬は一瞬だけ迷った。そして、
「……はい」
と答えた。生徒たちは嬉しそうに笑い、パンを受け取った。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ」
扉が開き、三人の明るい声が店の外へ遠ざかっていく。紬はしばらく、その背中を見送っていた。
「……蓮さんって、女子生徒にも人気なんですね。」
気づけば、そう呟いていた。千鶴が、パンを並べながら答える。
「慕われてるんだねぇ。」
「でも……」
紬は、店の外を見たまま言った。
「女の子たちの憧れの先生だったんだなって」
その言葉を口にすると、妙な気持ちになった。自分は今まで、蓮を自分が知っている蓮としてしか見ていなかった。
英語を教える先生。岡山弁で話す人。パンを買いに来る人。自分を気にかけてくれる人。
けれど、学校では。生徒たちにとって、蓮はまた別の顔を持っている。
「……私、ちょっと悪いことした気分です」
「なんでじゃ」
「だって……」
紬は言葉に詰まった。昨日、自分は蓮と恋人になった。そのことを、まだ誰にも話していない。もちろん、生徒たちに言う必要なんてない。
それでも、蓮に憧れているらしい彼女たちの前で、嘘をついているようで。心の中だけで、
――ごめんなさい。
と思ってしまった。
「……なんでもないです」
紬は小さく笑った。その時、店の外に気配がした。紬が反射的に顔を上げる。坂の下から歩いてくる、見慣れた長身の姿。蓮だった。紬の心臓が、また一つ大きく跳ねた。
昨日までと同じように、蓮はククノチへ向かって歩いてくる。けれど、昨日から自分たちの関係性は少し変わっていた。
その事実を思い出しただけで、紬の頬がまた熱くなった。




