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パンを焼かない一日(後編)

 車を降りると、潮の匂いがした。

 海岸沿いの駐車場には、休日の昼を過ごす人たちの車が何台か並んでいた。少し離れたところでは、子どもが砂浜を走り、波打ち際で小さな犬が嬉しそうに跳ねている。海は、思っていたよりも静かだった。

 空は高く晴れていて、太陽の光を受けた水面が、細かな銀色の粒のように揺れている。風は少し強く、遠くから寄せてくる波の音が、途切れることなく聞こえていた。


「気持ちいいですね」


 紬が言うと、蓮は隣で海を見た。


「そうですね」


「海って、何も考えなくていい感じがします」


「紬さんは、普段からそんなに考えているんですか?」


「考えてますよ」


「何を?」


「いろいろです」


「いろいろ、ですか」


「はい。今日のパンのこととか、明日の仕込みのこととか、お母さんのこととか……」


 紬はそこで言葉を止めた。いつもの癖で、頭の中にいくつものことが浮かんでくる。明日の仕込み。店の売れ行き。母親のこと。

 だけど今は、目の前には海が広がっていた。どこまでも続く青い水面が、波を立てては砂浜へ戻っていく。


「なるほど」


 蓮は頷いた。


「では、今日は僕のことを考えてください」


「えっ」


 あまりに自然に言われて、紬は足を止めた。蓮は少しだけ目を細めている。


「……今のは冗談ですか?」


「どうでしょう」


「またですか」


「今日はデートなので」


 蓮は、何でもないことのように言った。紬は、顔が熱くなるのを感じた。


「蓮さん、今日ちょっと……」


「何ですか?」


「いつもと違いませんか?」


「そうですか?」


「そうです」


 紬は少し考えた。


「なんというか……」


「なんというか?」


「……楽しそうです」


 蓮は一瞬、黙った。そして、海の方へ視線を戻した。


「そうかもしれません」


「やっぱり」


「紬さんと出かけるのは、楽しみでしたから」


 波が一つ、砂浜に近づいてきて、白い泡を広げた。紬はその波を見ながら、どう返せばいいのか分からなくなった。蓮は時々、こういうことを平気な顔で言う。

 何気ない声で、こちらの心臓に大きな石を投げ込んでくる。


「……私も、楽しみでした」


 やっとそれだけ返すと、蓮は少しだけ目を見開いた。


「本当ですか?」


「本当です」


「それはよかったです」


「蓮さん、疑ってたんですか?」


「いえ」


「でも、今ちょっと嬉しそうでした」


「嬉しいですよ。同じ気持ちだったんだなと。」


「……」


 紬は、海の方を向いた。風が吹いて、髪が顔にかかる。

 頬にかかった髪を押さえようとした時、蓮が少しだけこちらへ身体を向けた。


「風、強いですね」


「はい」


「髪が大変なことになっています」


「分かってます」


「手伝いましょうか?」


「え?」


 蓮の手が、紬の方へ伸びかけた。けれど、途中で止まる。


「……すみません。触っても大丈夫ですか?」


 紬は、一瞬何を言われたのか分からなかった。それから、急に心臓が大きく鳴った。


「え、あ……はい」


 蓮の指が、そっと紬の髪に触れた。風に乱れた髪を、耳の横へ払う。ほんの一瞬のことだった。近い上に、蓮の洗濯されたシャツの香りが降りてくる。嫌でも存在を意識してしまう。触れられた場所がいつまでも熱い。


「これで大丈夫です」


「……ありがとうございます」


「どうしました?」


「いえ」


 紬は、波の向こうへ視線を逃がした。今、蓮の指が髪に触れた。ただそれだけのことなのに。どうしてこんなに落ち着かないのだろう。


「紬さん」


「はい」


「顔が赤いですが」


「風が強いからです」


「そうですか」


「そうです」


 蓮は、何も言わずに笑った。絶対に分かっている。でも、何も言わない。翻弄されているのは自分だけで、蓮の方は女性に慣れているのだろうか?そういうところも、ずるいと思った。

 二人は海岸沿いの遊歩道を歩き始めた。遊歩道の脇には低い松の木が並び、風が吹くたびに細い葉がさらさらと音を立てていた。ところどころにベンチが置かれ、海を眺めながら休んでいる人もいる。

 紬は蓮の隣を歩いた。普段、店の中で向かい合っている時とは違う。今日は、同じ方向を見ながら歩いている。時々並んで歩くことはあったが、なんだか不思議な感覚だった。

 そして、ふと気づいた。蓮の歩く速度が、いつもより少しゆっくりしている。紬は、自分の歩幅が蓮よりもずっと短いことに気づいた。たぶん蓮は、何も言わずに合わせてくれている。そう思った。自分が遅れていることに気づかせないように。それが、蓮らしいと思った。


 少し先に、海へ突き出した小さな展望スペースがあった。手すりの向こうには、どこまでも海が広がっている。


「蓮さん」


「はい」


「歩くの、遅くないですか?」


「いえ」


「でも、さっきから私に合わせてません?」


 蓮は少し考えるように前を見た。


「そうですか?」


「合わせてますよね」


「紬さんは歩くのが早いので、着いていくのに必死です。」


「私が?」


「はい」


「そうだったんですね」


「気づいていなかったんですか?」


「全然」


「でしょうね」


「何ですか、それ」


 誤魔化された。紬が笑うと、蓮も笑った。そんなふうに笑い合うだけで、楽しかった。ククノチで話す時とは違う。

 仕事の話でもない。町の誰かの相談でもない。母親の話でもない。ただ、どうでもいい話をしている。それが、紬には新鮮だった。


「蓮さんは、休日って何をしてるんですか?」


「本を読んだり、散歩したりですね」


「やっぱり先生っぽいですね」


「先生じゃありません」


「あ、そうでした」


「今日は蓮です」


「蓮さん」


「はい」


「でも、先生っぽいですよ」


「どこがですか?」


「本を読んでそうなところ」


「それは先生じゃなくても読むでしょう」


「じゃあ、真面目そうなところ」


「それは否定できません」


「自分で認めるんですね」


「紬さんが言ったんですよ」


「蓮さんって、意外と負けず嫌いですか?」


「意外ですか?」


「はい」


「では、紬さんは僕をどう思っていたんですか?」


 蓮が、海を背にして紬を見た。その背後では、波が何度も岩にぶつかっている。紬は少し考えた。


「……優しい人?」


「疑問形ですか?」


「優しい人です」


「それだけですか?」


「それだけではないです」


「何でしょう」


 蓮がこちらを見る。目の奥に、熱を感じる。目を逸らしたくなる熱量。なのに、何故か晒せない。紬は、言葉に詰まった。今日、何度も思っている。かっこいい。

 でも、それを口にするのは、あまりにも恥ずかしい。


「……真面目で」


「はい」


「優しくて」


「はい」


「……」


「紬さん?」


 だけど、伝えずにはいられなさそうだ。もう、何度も思っていることを伝えてしまいたい。蓮を困らせることはわかっても、欲深い口は止まってくれないようだ。


「……かっこいいです」


 言ってしまった。蓮が、足を止めた。紬も、しまったと思った。


「……あの」


「はい」


「今のは」


「はい」


「その……」


 蓮は、いつもより少しだけ困ったような顔をしていた。


「ありがとうございます」


「……はい」


「でも」


「はい」


「急に言われると、僕も困ります」


「えっ」


「嬉しいですけど」


 蓮は、そう言って視線を海へ戻した。耳が少し赤くなっている。紬は、驚いた。蓮も照れるのだ。

 いつも自分ばかりが振り回されているような気がしていたけれど。


「蓮さんも、照れるんですね」


「照れていません」


「照れてます」


「照れていません」


「耳、赤いですよ」


「風のせいです」


「私と同じですね」


 紬が言うと、蓮は黙った。それから、少しだけ笑った。


「……そうですね」


 その返しが可笑しくて、紬も笑った。海辺で、二人の笑い声が風に混じった。

 昼食は、海の見える小さな食堂に入った。


 店内は木の匂いがして、窓際の席からは海が見えた。窓ガラスの向こうで、さっきまで歩いていた遊歩道を人が行き交っている。

 テーブルの上には、湯気の立つ料理が並んだ。


「ここ、よく来るんですか?」


 紬が聞くと、蓮は首を横に振った。


「いえ。初めてです」


「初めて?」


「今日のために探しました」


 紬は、箸を持ったまま止まった。


「……今日のために?」


「はい」


「ちゃんと調べてくれたんですね」


「せっかくなので」


 蓮はそう言って、少し照れたように笑った。紬は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

 この人は、こういうことをする。派手ではない。でも、ちゃんと考えてくれている。自分のために。


「蓮さん」


「はい」


「今日のデート、完璧です」


「デートですから」


 また、さらりと言われた。


「……そうでした」


 紬は俯いて、料理に視線を落とした。向かい側で、蓮が笑っている気配がする。それがまた、少し悔しかった。


「蓮さん」


「はい」


「今日、ちょっと意地悪じゃないですか?」


「そうですか?」


「そうです」


「先ほども言われました」


「だって、急に歌ってくださいとか、今日は僕のことを考えてくださいとか」


「歌ってくれると思ったので」


「歌いません」


「残念です」


「本当に聞きたいんですか?」


「はい」


「……」


「紬さん?」


「……いつか」


「はい?」


「いつか、気が向いたら」


 紬が言うと、蓮は少し目を見開いた。それから、嬉しそうに笑った。


「分かりました」


「そんなに期待しないでください」


「楽しみにしています」


「だから、期待しないでくださいってば」


 蓮は笑った。紬も笑った。食事を終えた後も、二人は急いで帰ろうとはしなかった。

 海辺の小さな売店を覗き、土産物の棚を眺める。紬が変わった形の貝殻を見つけて足を止めると、蓮も立ち止まった。


「それ、好きなんですか?」


「え?」


「さっきから見ています」


「……好きというか、珍しいなって」


「なるほど」


「蓮さんは?」


「僕ですか?」


「はい。こういうの、好きですか?」


「僕は……」


 蓮は棚に並んだ貝殻を眺めた。


「紬さんが好きなものを知る方が、今は楽しいですね」


 紬は、また言葉を失った。


「……それ、ずるくないですか?」


「何がですか?」


「そういうことを普通に言うところです」


「普通ではないですか?」


「普通じゃないです」


「そうですか」


「はい」


 蓮は少し考えてから、


「では、気をつけます」


 と言った。


「気をつけなくていいです」


「どちらですか?」


「……分かりません」


 蓮は、楽しそうに笑った。夕方が近づくにつれて、海の色が少しずつ変わっていった。

 昼間の明るい青は薄れ、水平線の近くに淡い金色が滲み始めている。帰る時間が近づくと、紬は少しだけ寂しくなった。それに気づいたのか、蓮が言った。


「今日は、楽しかったですね。」


「楽しかったですね。」


「本当に?」


「本当です」


「よかった」


 蓮は、少しだけ息を吐いた。その横顔を見て、紬は思った。蓮は、今日一日ずっと、自分が楽しめているかを気にしてくれていたのだ。行き先を選ぶ時も。歩いている時も。食事をしている時も。自分が楽しめているか。嫌な思いをしていないか。


 それを、さりげなく見ていた。紬は、蓮のことを見た。学校の先生としてではなく。ククノチに毎日来てくれる人としてでもなく。今日一日、一緒に過ごした男性として。

 かっこいい。優しい。話していて楽しい。それに、もっと一緒にいたい。そう思った。紬は、以前から蓮に対して感じていたものを再確認したのだった。


「紬さん」


「はい」


 蓮が、こちらを向いた。夕方の光が、長い髪の輪郭を柔らかく照らしていた。いつもの穏やかな顔だった。けれど、どこか緊張しているようにも見えた。


「僕から、話したいことがあります」


「はい」


 紬の胸が、少しだけ騒がしくなる。


「この前、デートですと言いましたよね」


「……はい」


「僕は、あの時からずっと考えていました」


 蓮は、ゆっくりと言葉を選んでいた。


「紬さんと、もっと一緒にいたいと思っています。」


 紬は黙って聞いていた。風が、二人の間を通り抜ける。遠くで、波が砂浜に寄せては戻っていく。


「ククノチで会って、話をして。紬さんのことを知っていくたびに、もっと知りたいと思うようになりました」


 蓮は、まっすぐ紬を見た。


「僕は、紬さんと付き合いたいです」


 胸の奥が、大きく鳴った。いつかこうなることは、分かっていたような気もする。でも、実際に言葉にされると、どうしていいのか分からなかった。


「……私で、いいんですか?」


 ようやく出てきた言葉は、やっぱりそれだった。蓮は、困ったように少しだけ眉を下げた。


「紬さんがいいんです」


 迷いのない声だった。その言葉を聞いた瞬間。紬の中にあった不安が、少しだけほどけた。母親とのことも。自分のことも。まだ何も解決していない。自分に自信があるわけでもない。


 それでも。今日一日、蓮と過ごして思った。この人と、もっと一緒にいたい。もっと知りたい。もっと、くだらない話をしたい。笑い合いたい。そう思った。


「……私も」


 紬は、ゆっくりと言った。


「私も、蓮さんと一緒にいたいです」


 蓮の目が、少しだけ見開かれる。


「……はい」


「私も、蓮さんがいいです」


 言った瞬間、恥ずかしくなった。そう言うことに疎く、後回しにしてきた紬としては最大級の勇気を振り絞った。顔から火が出てしまいそうだ。けれど、もう言ってしまった。蓮は、紬の言葉を反芻するようにしばらく黙っていた。それから、ふっと笑った。


「ありがとうございます」


「こちらこそ……?」


「はい」


「何でですか?」


「僕を選んでくれたので」


 その言い方に、紬の胸がまた熱くなった。手が届かない、素敵だと思っていた人と想いが通じ合った。たった今。


 急にどうしていいのか分からなくなる。帰りの車の中でも、二人とも少し静かだった。だけど、少しフワフワした、心地よい沈黙。行きとは違う静けさだった。窓の外には、夕暮れの町が流れていた。


 店の明かりが一つ、また一つと灯り始めている。道路沿いの家々からは夕食の匂いが漂い、車のライトが暗くなり始めた道を照らしていた。紬は助手席に座りながら、何度も蓮を見た。そして、すぐに目を逸らした。


「紬さん」


「はい」


「さっきから、見過ぎです。流石に、照れてしまいます。」


「……見てません」


「そうですか?」


「見てません」


「では、僕の気のせいですね」


「そうです」


 蓮は、前を向いたまま笑った。紬は窓の外を見た。けれど、ガラスに映った蓮の横顔が見えてしまう。また、かっこいいと思った。

 今日一日で、何度思っただろう。そして、そのたびに少しだけ恥ずかしくなった。車が紬の家の近くで停まった。エンジンが切れる。

 外はもう、すっかり夕方から夜へ移り変わろうとしていた。街灯の明かりが、車のフロントガラスに淡く映っている。

 いつもなら、ここで「ありがとうございました」と言って降りる。けれど今日は。二人の間に、少しだけ違う空気があった。


「紬さん」


「はい」


 蓮が、こちらを向いた。


「手をつないでもいいですか?」


 紬の心臓が跳ねた。


「……今ですか?」


「嫌なら、もちろん大丈夫です」


「嫌じゃないです」


 答えてから、紬は俯いた。蓮の手が、ゆっくり伸びてくる。指先が触れた。それから、そっと手をつないだ。大きな手だった。温かかった。紬は、つながれた手を見た。ーー恋人になった。その事実が、今さらながら実感として胸に落ちてくる。


「……蓮さん」


「はい」


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「楽しかったです」


「僕もです」


「また、行きたいです」


 紬が言うと、蓮は紬の目を見つめながら黙った。それから、嬉しそうに笑った。


「もちろんです」


 手が離れる。紬は車を降りた。ドアを閉める前に、蓮を見る。


「……おやすみなさい」


「おやすみなさい、紬さん」


 いつもの呼び方だった。でも、今日からは違う。

もう、ただのパン屋の店主と常連客ではない。

 紬は車が見えなくなるまで、その場に立っていた。車の赤いテールランプが、曲がり角の向こうへ消えていく。

 残された道には、夜の風が静かに吹いていた。紬は、胸に手を当てた。心臓が、まだ速い。海を見た。ドライブをした。蓮の横顔を見た。名前で呼んだ。ーー手をつないだ。


「……蓮さん」


 誰もいない場所で、もう一度名前を呼んでみる。今度は、少しだけ自然に言えた。




 その頃。ククノチの店内では、千鶴と美和が向かい合っていた。

 昼間の営業を終えた店内には、焼き上がったパンの甘い香りがまだ残っていた。

 窓の外はすでに暗く、店の明かりがガラスに反射している。片づけの終わったテーブルの上には、二人分の湯飲みが置かれていた。


「……あの子は、まだ知らんのじゃな」


 千鶴が静かに言った。美和は、しばらく黙っていた。


「知らない方がいいと思ってた」


「今もか?」


「……分からない」


 美和は、湯飲みに手を添えた。けれど、口をつけることはなかった。


「あの子が小さい頃から、時々……私には感じないものを感じていた。」


 千鶴は黙って聞いていた。


「最初は、子どもの想像だと思った。でも、そうじゃなかった」


 美和の声は、少し震えていた。


「そうだね。」


「お母さんは、知ってたの?」


「全部ではないよ。」


 千鶴は答えた。


「だけどね。あの子が普通の子とは少し違うことは、知ってたよ。」


 美和は、目を閉じた。


「私は、怖かった」


 千鶴は何も言わなかった。


「紬が怖かったんじゃない。あの子に何が起きているのか分からないことが怖かった」


 美和は、ゆっくり息を吐いた。


「母親なのに、何も分からなかった」


 外で、風が木の葉を揺らした。店の窓に映った二人の姿が、わずかに揺れる。千鶴は、静かに美和を見た。


「美和」


「……何?」


「紬は、常盤木町で色んな人に支えられているよ。大切な人もいるようだし。」


 美和は顔を上げた。千鶴は、それ以上は言わなかった。

 店の外では、夜の風が大きなシダの葉を揺らしていた。葉と葉が触れ合う音が、暗い町の中で静かに続いていた。

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